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2017年12月15~16日
 
胎内-酒田-山形
 
12月15日(金)一日中<長岡-胎内-酒田> 曇ときどき雨
16日(土)朝~昼前<酒田-山形> 雨~「みぞれ・湿雪」~曇
昼すぎ<山形> 雨
夕方<山形-胎内> 雨~「みぞれ・湿雪」
夜のはじめ頃<胎内-長岡> 雨


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このページで,上付きの数字や文字を付けたところは,ページの最後にまとめて示した本やウェブサイトからの引用です。


「冬の庄内 うまいもの」みたいな宣伝文句に引きよせられて,「酒田へ(行ってみようか)」ということになりました。

その行きがけに胎内の乙宝寺(おっぽうじ);帰りがけに山形の県立博物館と旧県庁舎(山形県郷土館「文翔館」)に寄ってきました。


1日目(12月15日,金)


乙宝寺(おっぽうじ)というお寺のことは,名前くらいならともかくとして,それより詳しいことは,どこにあるのかさえも,よくは知りませんでした。

ところが,これがいつもどおりの「灯台元が(ナンとやら)」で,境内にはいくつかの古い建物もあって(そのほかにも,いくつもの見どころがありますし),なかなか見ごたえのあるお寺でした。

「拝観のしおり」という案内(A4版の両面刷りで,裏面は「境内案内図」になっています)には:

寺伝によれば天平八年(736年)に聖武天皇の勅願を受けて北陸一帯の安穏を祈って,行基菩薩と婆羅門僧正* によって建立されました。古くは「乙(きのと)寺」と呼ばれていましたが,後白河法皇** の御代に法皇より「宝」の一字を賜り「乙宝寺」という寺名になりました。

のように説明されていて,なかなかの古刹,名刹のようでした。

*
菩提僊那(ぼだいせんな,Bodhisena)というのはインドの仏教僧で,天平八年(736年)に唐から来日し,東大寺大仏の開眼供養法要(天平勝宝四年,752年)で導師をつとめた人だということです。天平宝字四年(760年)に日本で没。
 
**
大治二年(1127年)-建久三年(1192年),第77代天皇,在位:久寿二年(1155年)- 保元三年(1158年)

このページが「もうすぐ(できるかな)」という感じになってきたころに:

『猿供養寺物語と乙(宝)寺』眞田弘信,寺野の歴史を語る会,114pp., 2005.12

という本にめぐり会いました。題名のなかにある「乙(宝)寺」という書きかたは,いまでは「乙宝寺」という名前なのだけれど,本に書いてある時代には「乙寺」だったという気持ちなのではないかと思います。ちなみに,「乙宝寺」には「おっぽうじ」;「乙寺」には(「きのとでら」ではなく)「おつでら」というふり仮名が付いています。

この本では(これは,パラパラとページをめくっただけでの印象ですが),8世紀前半の,乙宝寺(乙寺)の創建のころのことが丹念に調べられているようでした - 面白そうなので,なるべく早く,ちゃんと読んでみたいものだと思うようになりました。

〔2018年1月5日〕

参道の左右に池があり,右側の池のなかには弁天堂が;左側の池のなかには金比羅堂がありました。池は,参道の始まりにかかっている石橋の下でつながっていて,左右の2つで1つの池になっています。

下の写真が弁天堂で,寛文八年(1688年,330年まえ)に造られた(再建O)された)ものだということで,有形文化財(新潟県)になっているそうです。
お堂のまえに架かっている小さな石橋で「島」にわたり,戸の格子のあいだから中をのぞいてみると,弁天像がありました - 奥の暗がりの中に「それ」らしい形をした白いものが見えて,「弁天堂だから(弁天様なんじゃない)」と思っただけのことですが。

弁財天は,ウェブの百科事典W)を見ると:

元来インドの河神であることから,〔略〕 泉,島,港湾の入り口などに,弁天社や弁天堂として数多く祀られた。

ということですので,この弁天堂が池のなか(の小さい島)にあるのも,もっともなことのようでした。

境内には,弘法大師伝説のある「どっこん水」O)という清水が湧いていますので,弁天様は,この清水との縁で祀られているのかも知れません - 清水が池の水源のようにも見えますので,清水と池は「一体」で,それを無理に分けても仕方ないような気もするのですが。

弁天堂を右に見ながら参道を進むと,仁王門になります。

仁王門

乙宝寺の公式サイトO)を見ると:

仁王門は「延亨二年(1745年)に改修」され,その改修工事には「奈良創建の金堂の古材が使用されている」;

大日堂(金堂)は「延亨二年(1745年)に再建された」

のだということです。(そして,これも乙宝寺のサイトO)からの引用ですが,その大日堂は「昭和十二年に焼失。現在の御堂はその再建で,昭和五十八年に竣工した」のだということです。)

仁王門が「改修」で,金堂が「再建」のように書かれているのを見ると:

それまでの金堂はすっかり取り壊されて,新しい材料を使って新しい金堂が建てられた;

金堂の建て替えと同じころ(おそらく,その直後)に仁王門が修理された;

仁王門の修理には,まえの金堂に使われていた大きな木材(太い梁や柱)のなかから傷みの少ないものを選んで再利用した

ということなのだろうと思います。

そして,これもまったくの想像ですが,木材の再利用には:

仁王門で使われていた一本の木材の「全部」が,金堂で使われていた一本の木材によって丸ごと取り替えられたことも

仁王門で使われていた一本の木材の「一部」が,金堂で使われていた木材から切り出した木材と取り替えられたことも

あったのだろうと思います。

たとえば:

仁王門の外側に使われていた柱が,雨や風に当たって,全体に傷んでしまったら,金堂の内側に使われていた柱を使って「丸ごと」取り替えてしまう;

仁王門の柱のなかに,雨や湿気で下のほうだけが傷んだものがあったら,傷んだ部分を切り取って,そこに金堂で使われていた柱の一部を切り取ってはめ込む*

という方法が考えられそうな気がします。

*
柱の下のほうだけを取り替えるという方法は,法隆寺(西院伽藍)の廻廊でも使われていました - 柱の下のほうの1メートルとか2メートルだけが切り取られ(柱を胴切りにしたところも,柱の断面の半分ほどを切り取ったところもあったような気がするのですが,記憶があやしくなりました),そこに,べつの木材がはめ込んであるのを見てきました。これは,実物を見ながら「斑鳩の里観光ボランティアの会」の方に教わったことですので確かです - 私のいい加減な想像ということではありません。

ある柱が一本,丸ごと入れ替えられていたら,今になって「どれ」と見さだめることはほとんど無理そうですが,ある柱の一部だけが入れ替えられているところなら,その跡を見つけるは,継ぎ跡が残っているはずですので,それほど難しいことではなさそうな気がします。

今回の乙宝寺では,古い金堂の木材が仁王門の修理に使われたのだということをあとになって知りましたので,仁王門に残っている(かも知れない)修理の跡を探してみるなどということは思ってもみませんでした。今回は惜しいことをしてしまいましたが,乙宝寺にはまた,季節を変えて行ってみたいような気がしていますので,そのときの楽しみがひとつ増えたと思えばよさそうです。
仁王門の屋根は入母屋造りで,正面には唐破風(軒唐破風)が付いている - と見ればよさそうでした。「よさそうでした」などと歯切れがわるいのは,私たちが茅葺きの屋根** を見なれて「いない」せいでした。

** 今では,銅板で葺いてあるのですが,銅板は,茅葺きの屋根を残したまま,その上に貼ってあるらしく,茅葺きのときの形がそのまま残っているようでした。

私が「屋根の形は(ドーなんだろう)」とか「破風の種類は(ナンだろう)」と気にするようになったのは,城の天主や櫓のを見るようになってからですので,私にとっては,屋根といえば瓦葺きが「標準」になっているのですが,仁王門の屋根が,私の「標準」からは外れる茅葺きだったために,私の鑑定眼も(もし,そんなものが実在すればということですが)ちょっと鈍ったような気がします - それで,「入母屋造りの正面に軒唐破風」という見立てにも自信がもてなくなりました。(いちどは衰えた「自信」も,いまでは,すっかり回復しています。)

仁王門の側面(参道を奥に進むときの左側)

仁王門の正面
額の文字は山号で「如意山」
茅葺きの屋根や破風の様子が瓦葺きの屋根のときとちがうのは,茅の部分が厚く,その厚さのために,屋根の端が「ひさし」のような形になっている(たぶん「ひさし」のような役割もしている)からなのだろうと思います。

この葉っぱをクリックすると,城(彦根城)の天主を撮った写真〔2015年12月6日〕に替わります。最上層の屋根が「入母屋で平側に唐破風(軒唐破風)」という,仁王門とおなじ形になっているのですが,雰囲気はまったくちがいます。城(の天守)とお寺(の門)という,用途のちがいのせいもあるのでしょうが,「瓦葺き」と「茅葺き」というちがいのほうが大きく影響しているような気がします。
仁王門の屋根を初めて見たときに,すぐに入母屋だとは分からずに,なにか「変わった造り(なのかも知れないね)」と思ったりもしたのですが,その理由は,屋根の左右の,大棟のすぐ下に,なにか見なれないもの(右の写真で楕円で囲んだところ)が付いていたからだろうと思います - その上半分は鳥の「くちばし」のような形(ちょっと太くて短めですが)をしており,「くちばし」の下は少しへこんで,ヒトの目のような形に見えていました(「目」の内側が屋根の縁に接するように付いているのは,目がある場所としては,ちょっと不都合ですが)。

この部分を門の正面や裏側から見ると,「不思議なものが(付いている)」としか思えなかったのですが,上の写真(2枚の左側)のように,門を横から見あげてみると:

鳥の「くちばし」のように見えたところは,門の前方と後方の屋根(破風の前から見れば右と左の屋根)が交わったところを覆っている帽子のようなもの - 瓦屋根でいえば,棟瓦(むねがわら))のようなもの;

ヒトの「目」のように見えたところは,その「帽子」と屋根のあいだにできた隙間(その隙間を正面から見たときの形)

らしいと分かってきました。

門の正面や裏から見たときに,ヒトの「目」よりも下の部分は,下から上に向かって広がっているのですが,これは,茅葺き屋根の「厚さ」のせいで,「ひさし」のようになった部分が上のほうほど深くなっているからだろうと思います - 茅の下端を切りそろえるときに,上のほうほど緩い角度で切ったので,屋根の表面が大きく張りだすことになったのだろうという想像です。


ところで,これもウェブを彷徨いながらのことですが:

山形県にある熊野大社(南陽市宮内)の拝殿の屋根が茅葺きの入母屋造りになっていて,入母屋破風の頂部の屋根に帽子のようなものが付いている

ことを示す写真に出合うことができました。ちなみに,屋根は掛け値なしの茅葺き屋根で,茅の葺きっぱなし(という言葉があるのかどうかはわかりませんが,様子は伝わると思います)になっています。

この葉っぱをクリックすると,熊野神社(山形県南陽市)のトップページ(http://kumano-taisha.or.jp/)に替わります(新しいウィンドウを開きます)。トップページには拝殿の写真が使われていて〔2017年12月22日現在〕,入母屋破風の上に「帽子」が付いているところが見られます。また,トップページから「熊野大社について-境内案内-(クリッカブルマップになっている境内の地図で)31.拝殿」のように進むと,拝殿のページ(写真と解説)が表示されます〔2017年12月22日現在〕。

仁王門の裏面
この門には(というより「乙宝寺の参道には」というほうが当たっているのかも知れませんが)不思議なところがあって,仁王門のところで参道が(わずかにですが)折れ曲がります。参道を歩いてきた人は,門の下を通るとき,自分が進む方向を少しだけ(人によっては気づかないくらいにですが)変えなければなりません。

参道は,門の表側から来ると,門のところでわずかに右に曲がり,門の裏側から来ると,門のところでわずかに左に曲がります - もっと正確には,参道は,参道を奥に向かって進むとき,門の表側でも裏側でも,門に対して(垂直にではなく)少し左へずれるように付いていて,その角度が,門の表側のほうが裏側よりも大きいということのようでした。

この葉っぱをクリックすると,門の正面から撮った写真に替わります - 門の前面の中央から垂線を伸ばし,その上に立つようにして撮りましたので,参道が門のところで右に「折れて」いることがはっきりします。

このようなことと「関係のありそうなことが(見つからないだろうか)」と思いながらウェブを少し彷徨っていると,「がらくた置場 by s_minaga」というサイト(http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/)にたどり着き,乙宝寺の境内の様子を描いた絵地図(http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/2005to/otupoji10.jpg)が載っていることを「発見」してしまいました - その絵地図を,下の葉っぱにリンクしました。

この葉っぱをクリックすると,「北越之全景」という題名で,乙宝寺の境内の様子を表した絵地図に替わります。新しいウィンドウを開きます。絵地図の題名と内容が合っていないのが気になるところですが,その理由は,絵地図を見ただけでは分かりませんでした。

絵地図に描かれている乙宝寺の境内を見ても,境内への入口(参道が始まるところに架けられた橋)から仁王門までの参道と,仁王門から大日堂(金堂)までの参道が一直線にはならず,仁王門のところで食いちがったり折れたりしています。

もしかすると,乙宝寺の参道が一直線にはなっていなくって,仁王門のところで折れたり食いちがったりしているのだということは,昔からよく知られていて,この絵地図の作者も,そのことを描きあらわしておきたかったのかも知れません - そうではなくて,遠近法が「ちょっと乱れた(だけなんじゃない)」という,ちょっと失礼な(そして,まったくの見当ちがいかも知れない)想像もできそうですが。


三重塔は,参道の仁王門と大日堂(へ登る石段の下)のあいだの右手(20メートルほど奥まったところ)にありました。元和六年(1620年)の建立で,重要文化財に指定O)されているそうです。左の写真は,参道のわきにある手水社(ここの水が「どっこん水」だったようなのですが)のところから撮りました - 三重塔の正面から撮った写真を下の葉っぱにリンクしました。

この葉っぱをクリックすると,正面から撮った写真に替わります。

この塔を見たときの感想は,「どちらが先に(わいてきた)」ということではないのですが,二つあり,三重塔らしい「軽さが(いいね)」というのと,三重と五重というちがいはあるのですが,どことなく「出羽神社の五重塔に(似ているね)」というものでした。(出羽神社の五重塔を撮った写真を,少し下の箱のなかに貼りました - 2枚の写真の右側です。)

三重塔というのは「軽さが(いいね)」というのは,2年ほどまえに,興福寺の三重塔を見たときからの感想で,そのあと,今年(2017年)の春に,斑鳩の法起寺の塔を見たときにも,おなじように感じたことを憶えています。

このような感想は,今回の乙宝寺で3度目になりましたので,三重塔(の見かけ)が軽やかになるというのはかなり「当たって」いるような気がします。

本当は,たった3つ見ただけで「そう」と決めてしまってはアブナイのかも知れませんが,三重塔を「軽やか」だと感じることの裏側には「五重塔に比べてみると」という気持ちがありますので,五層まで積み上げるのと,三層までですませるのでは,実際の重さを考えても,その重さを支えるための造り(どうしても,ガッシリと造ることになるだろう思います)を考えても,五重塔のほうが「重い」と感じられて当然なのかも知れません。

この葉っぱをクリックすると,法起寺の三重塔を撮った写真〔2017年4月1日〕に替わります。

「羽黒神社の五重塔に(似ているね)」という感想は,どちらも「白木造り(素木造り)で屋根が柿葺き(こけらぶき)」だというところから来ているのだろうと思います。このような共通性が,乙宝寺が越後国の北のほうにあり,出羽神社が出羽国の南のほうにあるという,地理的な近さと関係があるものなのか,ないものなのか - 興味のある「問題」なのですが,そこまでの「調べごと」には,まだ手がつきません。


興福寺
〔2015年11月25日〕

出羽神社
〔2014年8月30日〕
「軽やかさ」が三重塔の身上だといっても,乙宝寺の三重塔は,興福寺の三重塔に比べると,その点では,ちょっと引けを取るような気がします。それに,興福寺の三重塔には,「軽やかさ」に加えて,「切れのよさ」とでもいえばよさそうな感じがあるのですが,乙宝寺の三重塔に「切れ」という雰囲気はありません - その代わりに,なにやら暖かい感じのするのが好いところだろうと思うのですが。

このような雰囲気のちがいは:

  屋根

乙宝寺:
柿葺き
素木
興福寺: 瓦葺き 彩色木材と漆喰

のようなちがいから来ているのだろうと思います。

塔の屋根や,壁の材料や造りかたが,時代や地方が同じならば同じ(あるいは,似ている)ということが「あるのかも(知れないね)」と思いながら,写真を貼った3つの塔の所在地と建てられた(あるいは再建された)時代を調べてみると,下の表のようになったのですが,予想にたがわず,3つの例だけでどうこういえるものではなさそうでした。
乙宝寺三重塔
新潟県胎内市
江戸時代
「元和六年(1620年)」O)
出羽神社五重塔
山形県鶴岡市
室町時代(南北朝)
「文中年間」*(1372-1375)
興福寺三重塔
奈良県奈良市
鎌倉時代** 「治承四年(1180年)に焼失し,まもなく再建」**
 
 
 
 
*
『出羽三山神社』www.dewasanzan.jp/
** 『興福寺』www.kohfukuji.com/

乙宝寺の「見どころ」のひとつに「猿塚」という石塔があります。

乙宝寺の公式サイトO)には,乙宝寺に伝わる伝説のひとつに:

「写経猿伝説」があり,『今昔物語』にも乙寺の名前が見えています。この伝説があることから乙宝寺は猿供養寺とも言われています。

という説明が,また,ウェブの百科事典W)にも:

「今昔物語」や「古今著聞集」にみえる「写経猿」の説話にちなんで猿供養寺とも呼ばれる。

という説明がありましたので,写経猿ゆかりの「猿塚」を見ないで帰ってしまっては,「なにしに(猿供養寺へ行ったんだろう)」と悔いを残すことになりそうでした。

ウェブの『日本伝承大鑑』というサイト(http://www.japanmystery.com/)には,「供養猿」の話しは:

『大日本国法華経験記』第126話を初出として,『今昔物語集』『古今著聞集』『元亨釈書』に記載されている。

のだという説明がありました。

〔2018年1月3日〕


この五輪塔は猿塚では「ない」ようです - 本当の猿塚は,五輪塔の左手前3-4メートルのところにあった宝篋印塔だということです。〔2018年1月29日〕

大日堂(金堂)のまえで線香をひと束あげたあと,駐車場でもらった「境内案内図」を頼りに(ちょっと迷ったりもしながら)2-3分ほど歩いたあとに,「猿塚」らしい,ヒトの背丈よりも高い,立派な五輪塔があるところにたどり着きました。

ウェブの百科事典W)には「方丈殿の後方の薮の中にある」などと恐ろしいことが書いてあったのですが(下線は私が付けました),季節のせいか,薮に悩まされることなどサラサラなくて(その代わり,少しまえに降った雪が残っていたせいで足元がわるかったのですが)無事に猿塚もうでもすませることができました。

左の写真に写っている五輪塔のちかくにもうひとつ,そちらは(たしか)宝篋印塔(ほうきょういんとう)だったと思うのですが,似たような背丈の石塔が立っていました。「境内案内図」には,「猿塚」の場所が五輪塔の絵で示してありましたので,あまりよく考えてもみずに,五輪塔のほうが「猿塚」だと決めてしまったのですが,あとになって「ほんとうは(どっちだったんだろう)」と悩むことになりました - 困ったことに,この悩みは,いまも解消していません。

悩みが解消しました。

近所の図書館に,乙宝寺編集室が発行した『乙宝寺』* という本がありましたので,それを開いてみると「サル塚」の写真があり,その写真には:
二匹の猿を供養した塔。宝篋印塔が供養のために建てられている。
という説明がついていました。

つまり,私が「こちらが猿塚(なんじゃない)」と思った五輪塔は,猿塚では「ない」ということのようでした。

*
『乙寶寺』小川義昭(文),乙宝寺編集室,31pp., 1989.1

〔2018年1月29日〕

撮ってきた写真も,「これが(「猿塚」だ)」と思いこんだ五輪塔のほうばかりで,宝篋印塔のほうは一枚もありません - それで,写真を見くらべて考えてみることもできません。写真を見くらべたからといって,本当のことが分かるとも思えないのですが,それができないというのが「間抜けなことを(したもんだ)」とか「やっぱり惚けた(からなのかナー)」というような,悔しさや不安の種になっています。

『日本伝承大鑑』というサイト(http://www.japanmystery.com/)の乙宝寺のページには,宝篋印塔と五輪塔の写真が貼ってあるのですが,どちらが「猿塚」だとは書いてありません - ということは,両方とも(というか,ふたつ合わせて)「猿塚」なのかも知れません。「念仏猿」は夫婦ものだということですので,「猿塚」が二つあってもよいのかも知れませんが,五輪塔と宝篋印塔では,それぞれに作られた時代がちがうそうですので,両方ともに「猿塚」だということはない(つまり,夫婦の猿の塚を一つずつ,時期を変えて建てることは考えにくい)ような気がします。

〔2018年1月3日〕
ところで,これも,あまり大した話しではありませんし,私が発見したことでもないのですが,「ヘーッ(こんなこともあるんだね)」と思うようなことがありましたので,書いておきたくなりました;

『今昔物語集』のなかでは,猿供養寺の名前が,乙宝寺でも乙寺(きのとでら)でもなくて,国寺(くにでら)になっているのです - 「写経猿」の伝説が残っているお寺が乙寺(乙宝寺)だということは確かなのですが,『今昔物語集』に出てくるときには,そういう名前になっていないのです。

図書館で『今昔物語集』* を借りてみると,たしかに「写経猿」の話しが載っていて,その題名が:

越後国々寺僧為猿写法花語第六

のようになっていました(下線は私が付けました)。これを:

ゑつごのくにの くにでらのそう さるのために ほふくゑをうつすこと だいろく

と読むのだそうですが(空白を入れたり下線を付けたりしたのは私です),漢字仮名交じりで書けば:

越後国の国寺の僧,猿のために法花を写すこと 第六

のようになりそうです。

じつは,このように書いても,私には分かりにくいところがまだあって;

そのひとつは「法花」というところなのですが,これは「法華経」のことらしく,本文中には「法花経」(ほふくゑきやう)のように出てくるところがあります - 『今昔物語集』の時代には「華」を使わずに「花」を使ったのでしょうか?

もうひとつは「第六」なのですが,これは巻ごとに収められている物語の通し番号のようで,今なら,題名のアタマにもってきて「第6話」とでもするところだろうと思います。ちなみに,「写経猿」の話しが収められているのは「巻第十四 本朝仏法」という巻で,この巻には「第四十」までの「今昔(いまはむかし)」が収められていました。

というわけで,「写経猿」の出どころを,私にもひと目で分かるようにするには:

『今昔物語集』第14巻 日本の仏法関係 第6話
「越後国の国寺の僧,猿のために法華経を写経すること」

とでもすればよさそうです。

* 『今昔物語集(1)<全四冊>』馬淵和夫・他(校注・訳),新編日本古典文学全集 35,小学館,613pp., 1999. 4〔「写経猿」の伝説はpp.421-5〕
それで,いよいよ,ここからが本題(『今昔物語集』での「猿供養寺」の名前のこと)なのですが,寺の名前が:

題名のなかで「越後国々寺」になっているので,「えちごのくにくにでら」と読むことになってしまい,「猿供養寺」の名前が「国寺(くにでら)」になってしまった

のだということです。くり返し記号の「々」を使わなければ「越後国国寺」になり,これをもっと見やすくするには,「越後国 国寺」とか「越後国の国寺」のように書けばよさそうです。

つまり,『今昔物語集』を写した(写本した)人が,もとの本では,ちゃんと「越後国乙寺」と書いてあったのを「越後国々寺」と読みまちがえて(そして,その読みまちがいのまま書いて)しまったということのようでした - その写本を読んだ人こそいい面の皮で,「くにでら」と読んで,そうだと思うしかなかったことになります。

図書館で借りた本* の頭注(p. 421)には,この辺りの経緯が(もっと手際よく):

「乙」の草体を重複記号の「々」に読み誤ったもの。ただし,本文中みな「国寺」で通しているところを見ると,編者はこの寺の名を「国寺」と信じていたらしい。

のように説明してあって,編者(写本をした人のことだろうと思います;編者には,そのような意味もあるのでしょうか?)の読みまちがいではなく,記憶ちがいなのかも知れないという考えも示されていました。

「念仏猿」の「初出」があるという『大日本国法華経験記』** には,たしかに「第百廿六 越後国乙寺の猿」という話しが載っていて,お寺の名前は「乙寺」でした。「乙寺」が「国寺」に化けたのは,それがどの写本でのことかは(私には)分かりませんが,『今昔物語集』に収められてからのことらしいと分かります。

**『往生伝 法華験記録』井上光貞・大曾根章介(校注),日本思想大系7,岩波書店,774pp., 1974.9(『大日本国法華経験記』(訓読文)は pp.43-219)

〔2018年1月5日〕

大日堂(金堂)の裏手の小高いところから,南北に長く(たぶん100メートルあまりに亘って)たくさんの石碑が立っているところがあります - そこが「境内案内図」にも書いてある「西国三十三観音巡り」のようでした。

ここは,小さいながらも,「西国三十三所」の「写し霊場」* になっているようでした。
*
「写し霊場」というのは,ウェブの百科事典(西国三十三所/西国写し霊場)W)を見ると,「西国三十三所」がある地域(現在の府県でいえば,近畿2府4県と岐阜県)とはちがう場所(有名なのは「板東」と「秩父」ですが)につくられた,「西国三十三所」と同じような巡礼路のことを指すようでした。「板東三十三個所」や「秩父三十四個所」も,乙宝寺の「観音巡り」に比べれば,規模もずっと大きいし,ずっとよく知られていますが,やはり「写し」なのだということです。ちなみに,「西国」ができたのは,正確な年代を決めるのは難しいようですが,大づかみには平安時代,「板東」と「秩父」ができたのは,それぞれ鎌倉時代と室町時代だということです。
石碑の一つひとつには,これは全部の石碑について確かめたことではありませんが,下の写真のように,「六観音」** のどれかひとつの浮き彫りと名前が刻んであるようでした。

十一面観世音

如意輪観世音

馬頭観世音
** ウェブの百科事典W)の「観音菩薩/普門示現/六観音」の項を(しっかり読んでも,複雑なことはよく分かりませんでしたので,あきらめて)「斜め」に読んでみると,「六観音」について,次のようなことが分かりました。

観音菩薩は,救済する相手のちがい(仏法を理解する能力のちがい;六道輪廻の「どこ」にいるかのちがい)によって,いろいろな姿であらわれるのだということですが,その「いろいろ」な姿の組み合わせとして「六観音」「七観音」「十五尊観音」「三十三観音」などがあるようです。(観音菩薩がいろいろな姿であらわれることを「普門示現」というそうです。)

そのなかで「六観音」というのは:

聖観音,十一面観音,千手観音,馬頭観音,准胝観音(じゅんていかんのん,じゅんでいかんのん),如意輪観音

のような組み合わせをいい,それぞれに,六道輪廻の「地獄,餓鬼道,畜生道,修羅道,人道,天道」にいる衆生を救ってくれるのだということです。真言宗では,上に書いたような「六観音」なのですが,天台宗では,准胝観音が不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん,ふくうけんじゃくかんのん)に代わって:

聖観音,十一面観音,千手観音,馬頭観音,不空羂索観音,如意輪観音

になったり,真言宗の「六観音」に不空羂索観音が加わって「七観音」になったりという,教義によって一定しないところもあるようです。

ここまで「勉強」してきて,乙宝寺は真言宗のお寺ですので,石碑に刻んであるのは「七観音」ではなく,准胝観音(人道)が含まれる「六観音」なのだろうという想像になっています。
私ははじめ,「西国」にせよ,その「写し」にせよ,「三十三所」というのは「三十三観音」と関係していて:

「三十三所」のどこかに「三十三観音」のどれかひとつが祀られている(札所の本尊になっている);つまり,「三十三所」を一巡りしてくれば「三十三観音」のすべてに(一度ずつ)出会うことができる

ということではないかと思ったのですが,これはまったくの見当ちがいで,ウェブの百科事典W)にも:

西国三十三所観音霊場,三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来する。

とあるように,三十三所と三十三観音は,33という数が合っているというだけで,札所の順番と三十三観音の列びのあいだには,なんの関係もないようでした。

観音霊場の札所で本尊として祀られているのは,観音菩薩の「別身」とか「変化(へんげ)」と呼ばれる姿のうちでも「六観音」に含まれるもののようで,「西国」W)「板東」W)「秩父」W)の第一番から第十番までを調べてみると:

 西国板東秩父
第一番如意輪観音十一面観音聖観音
第二番十一面観音十一面観音聖観音
第三番千手観音千手観音聖観音
第四番千手観音十一面観音十一面観音
第五番千手観音十一面観音准胝観音
第六番千手観音十一面観音十一面観音
第七番如意輪観音聖観音十一面観音
第八番十一面観音聖観音十一面観音
第九番不空羂索観音十一面千手千眼観音如意輪観音
第十番不空羂索観音千手観音聖観音

のようになっていて,「板東」の第九番(十一面千手千眼観音)のぞけば,「六観音」か「七観音」とされる変化観音が祀られているようでした。「十一面千手千眼観音」も「十一面」と「千手」の姿を合わせたもののようですし,「千眼」も「千手」と似た考えから生まれているような気がしますので,「十一面千手千眼観音」も「六観音」や「七観音」の範囲にあると思ってもよさそうな気がします。

ちなみに,「十五尊観音」と「三十三観音」のなかには,「六観音」や「七観音」に含まれる別身(変化観音)は含まれません(少なくとも,表だった名前の重複はありません) - たとえば,「十五尊観音」に含まれる変化身W)は:

白衣菩薩,葉衣菩薩,水月菩薩,楊柳菩薩,阿摩提菩薩,多羅菩薩,青頸菩薩,琉璃菩薩,龍頭菩薩,持経菩薩,円光菩薩,遊戯菩薩,蓮臥菩薩,瀧見菩薩,施薬菩薩

だということです。これも,ウェブの百科事典W)を見てわかったことですが,「三十三観音」には,「十五尊観音」の15の別身と,それ以外の18の,「六観音」や「七観音」との重複のない別身が含まれるようでした。
こんなことを(暇に飽かせて)「調べ」ているうちに,観音霊場の「写し」といっても,揃っているのは:

札所の数(33);
祀っている変化観音のグループ(「六観音」や「七観音」)

というところまでで,札所の順番と,祀られている変化観音のあいだには,「西国」と「写し」での共通性はないらしいと分かってきました。

これは私の想像にすぎませんが,「西国」にかぎらず,どの「写し」がつくられるときにも,最初にあったのは,教義をもとにつくられた設計図ではなく,現実にある,さまざまな変化観音を祀るたくさんの寺だったのではないかと思います - そのなかから三十三個所を選んで「三十三所」にまとめあげるという作業(交渉とか約束とか)が行われたのだと思えば,「西国」と「写し」のあいだに「揃っていること」と「揃っていないこと」があることにも説明がつきそうな気がします。

ところが,このような想像がなりたちそうなのは,「板東」や「秩父」,あるいは,旧くは国(律令国);いまなら一つの県や,いくつかの県にまたがるような,大きな広がりのなかにつくられた,規模との大きな「三十三所」にかぎられそうな気がします。

そのように大きな「三十三所」よりもずっと小さな,たとえば乙宝寺の「観音巡り」のような,こぢんまりとした「三十三所」ならば,「なん番目」に「なに観音」を祀るかまでも含めて「西国」の「写し」にすることもできそうな気がします。乙宝寺の「観音巡り」がほんとうに「そう」なっているのかどうかは,いまはまだ分かりませんが,いつか調べてみたいものだと思います - といっても,やはり春になるのを待ってからにするがよさそうですが。
乙宝寺の「西国観音巡り」のことが気になったのは,この一年(2017年)のあいだに「西国三十三所」に関係のある場所に,それと意識してのことではないのですが,いくつか行ってきたことが大きいような気がします - 観音信仰の開眼ということではなく,物見遊山の産物だというのが「いかにも(凡夫)」らしいところなのですが ...。

ひとつ目は,3月に行ってきた青岸渡寺で,「熊野もうでに(行ってみようか)」ということで出かけ,そのときに,こういっては申し訳ないのですが,那智大社の一部のような感じで寄ってきました - 「西国三十三所」の巡礼にとっては第一番という大切な札所なのですが,観光資源としては,那智大社の滝や石畳のみちには引けをとるようでした。

この葉っぱをクリックすると,青岸渡寺の写真〔2017年3月29日〕に替わります。正面の向かって左の柱には「那智山青岸渡寺」,右の柱には「西国第一番札所」と,大きな金色の文字で書いた札がかかっています。

ふたつ目は,こちらは「三十三所」の札所そのものではないのですが,10月に行った若狭街道の熊野宿でした。二十九番の札所(舞鶴の松尾寺,馬頭観音)と三十番の札所(竹生島の宝厳寺,千手千眼観音)のあいだにあって,西国札所の巡礼たちも泊まるような旅籠があったのだということです。(熊野宿というと「鯖街道」との関係で説明されることが多いのですが,それだけではない一面として,熊野宿を案内してくれた「若狭町みかた語り部」の方に教えてもらいました。)

この葉っぱをクリックすると,熊野宿に残っている問屋の建物を撮った写真〔2017年10月1日〕に替わります。


「西国観音巡り」の石碑にそって歩いていると,左の写真のような,大きな殻斗に包まれた大きなドングリが落ちていました。

「アベマキ(なんじゃない)」と思い,初めて見るアベマキのドングリでしたので大よろこびで写真を撮ってきたのですが,しばらくすると,この見たてに自信がなくなってきました。ウェブの助けを借りながら,アベマキのドングリだということを確かめようとしたのですが,分かったのは「アベマキとクヌギは,ドングリも葉っぱもよく似ている」ということでした - アベマキとクヌギをドングリや葉っぱで見分ける方法というのも,いくつものサイトに出ていたのですが,写真を見ただけでどちらと決めるのは,私にはちょっと無理そうでした。

この写真を撮ったときに,「どこから(落ちてきたんだろう)」と思いながら周りを見まわしてみて,クヌギらしい枝ぶりの木がに入らなかったことは(おぼろに)憶えているのですが,それだけで「クヌギ(ではない)」と決める勇気も出てきません。

この「アベマキ/クヌギ」問題も,葉っぱや幹の様子を(ちゃんと)見なおして解決するほうがよさそうです - 「もういちど(乙宝寺に行く)」ということが,大きなドングリに背中を押され,ますます実現にちかづいてきたような気がします。


乙宝寺には「越後三十三観音霊場」の「第二十六番札所」という顔もあり,この観音堂に札所の本尊(如意輪観音)が祀られていました。

ちなみに,乙宝寺は「観音霊場」のほかにも:

越後薬師霊場 第二十二番札所
越後新四国八十八ヶ所 第三十八番札所
越後弘法大師二十一か所霊場 第八番札所

になっているO)のだということです。

この葉っぱをクリックすると,「越後新四国 第三十八番」の札所になっていることを示す表札の写真に替わります - 仁王門の柱に掛かっているのを撮りました。うしろに大日堂(金堂)が見えています。

乙宝寺で遊んだあとに,乙宝寺の門前の名物だという「乙まんぢゅう」を食べに行きました。

お店でもらったリーフレットを見ると:

文化元年(1804年)に初代「萬屋重吉」が,越後の名刹『乙宝寺(おっぽうじ)』門前にて創業。

乙まんじゅう
創業時から作り続けている看板商品の酒饅頭。〔略〕越後三大酒饅頭の一つにも数えられています。

のような説明がありました。

私たちが住んでいる長岡にも「大手饅頭」という名代の酒饅頭があるのですが,そちらに比べると小ぶりに作られていて,2つだけ(一人にひとつずつ)出してもらった饅頭は,オジーさんとオバーさんの(早めの)おやつにちょうどよい大きさでした。酒饅頭としての雰囲気は(味のことも含めて),乙まんぢゅうは乙まんぢゅう,大手饅頭は大手饅頭ということで,それぞれになかなか結構でした。



2日目(12月16日,土)

前日は,天気が好くないといっても,曇り空からときどき雨が落ちてくるだけだったのですが,この日は「雨,みぞれ,雪(湿雪)」が入れ替わり立ち替わりで降ってきてしまいました。降ってくるものがいろいろに変わったのは,天気が動いたというよりも,私たちが動いていたから - 海岸と内陸のあいだを往ったり来たり;低いところと(少し)高いところを上ったり下ったりしたからのようでした。雪になったのは,鶴岡から山形に向かう途中の,湯殿山や月山のふもとを走っているあいだ(月山道路;正式な名前は「月山花笠ライン」)と,帰りみちの,南陽から胎内に向かっている途中(R113)の,山形と新潟の県境にちかい小国のあたりでした。

天気に恵まれなかったのは残念でしたが,この季節のこの辺りでならば「ショーが(ないんじゃない)」とあきらめるのがよさそうでした - 「このくらいですんでくれて(助かった)」と思うのが,大人の反応(?)のような気がします。それに,一日のほとんどを車のなかと建物のなかで過ごすような計画でしたので,「それはそれで(上手くいったんじゃない)」と思いながら旅行を終えることができました。
山形に着いて,まず向かったのは,お城(霞城公園)のなかにある山形県立博物館で,いちばんの目当てだった「縄文の女神」を堪能してきました - 「縄文の女神」は,いま5つあるという,国宝になっている土偶のひとつです。

博物館でもらった案内のなかに「国宝土偶(平成28年1月31日時点)」という図があって:
土偶出土地
展示施設
中空土偶北海道函館市 著保内野遺跡*
函館市縄文文化交流センター
合掌土偶青森県八戸市 風張1遺跡*
八戸市埋蔵文化財センター 是川縄文館
縄文の女神山形県舟形町 西ノ前遺跡
山形県立博物館
縄文のビーナス長野県茅野市 棚畑遺跡*
茅野市尖石縄文考古館
仮面の女神長野県茅野市 中ッ原遺跡
茅野市尖石縄文考古館
の5つが,写真つきで載っていました。(下の3つは,私たちも見たことがある土偶です。)

*
著保内野(ちょぼないの),風張(かざはり),棚畑(たなばたけ)

私たちが「ついて」いたのは,この日は土曜日だったのですが,天気の好くないせいか,博物館に来ている人は少なくて,展示解説をしているボランティアの方を一人占めできたことでした。「縄文の女神」のところでも,「女神」についてはもちろんのこと,「女神」が国宝になったときに「附(つけたり)** として,国宝の一部になったたくさんの土偶(「女神」ほど大きいものはなく,完形品でないものも多かったと思うのですが)についても,出土したときの様子との関係なども含めて,詳しく解説してもらうことができました。
** いくつかの文化財をまとめて国宝に指定するときに(国宝以外の文化財でも同じだろうと思うのですが),中心的なものを一つ選んで「国宝に指定する」と書き,それ以外に指定するものがあれば,「附 なになに」と書くようです(必ずそうするのかどうかは分かりませんが)。

たとえば,松江城で見た「国宝指定書」ですと(もとの文書は縦書きですが):

松江城天守 一棟
四重五層 地下一階付 本瓦葺 南西附櫓 一重 本瓦葺
・祈祷札 二枚 慶長十六年正月吉祥日
・鎮宅祈祷札四枚
・鎮物三点 祈祷札一,槍一,玉石一
右を国宝に指定する。

のように書いてありました(「附」の下線は私が付けました)。これで,大小あわせて10件の文化財が国宝に指定されているようでした。

この葉っぱをクリックすると,松江城の「国宝指定書」を撮った写真に替わります - 天守の最上層に額に入れて飾ってある,「持って,記念撮影OK」というレプリカですが。
展示解説の方には,ほかにも,「ヤマガタダイカイギュウ」という900万年まえの哺乳類(ジュゴンやマナティの親戚すじだということでした)の化石や,数十年まえまで,家庭の風呂や学校のストーブなどで焚かれていたという亜炭のことなどの,面白い話をいくつも聞かせてもらうことができました。(酒田から山形までは雪に降られて速く走れず,午後には1時半からという予定(旧県庁舎)がありましたので,博物館での時間がかぎられてしまい,面白そうなものもずいぶん見のがしてしまったようで,惜しいことをしてしまいました - ここも「そのうちに,もういちど」のリストに入ることになりました。)


旧県庁舎(今の名前は,となりにある旧県会議事堂と合わせて「山形県郷土館 文翔館」というようです)は,官庁街* のメインストリート(花笠まつりの「パレードコース」になるのも,この通りのようでした)の突き当たりにあって,大きな敷地に建てられた,なかなか大きく,雰囲気のある建物でした。

*
明治の初期に官庁街として整えられた一画のようなのですが,いまもここにある「大もの」は,地図(電子国土Web/地理院地図/国土地理院)を見ると,市役所と裁判所だけのようでした。

「文翔館」の写真は,庁舎のほうにばかり目が行って,庁舎の写真は何枚か撮ってきたのですが,議事堂のほうは一枚もないという惨状になりました。

県庁舎が生まれ変わったり,県庁舎が「文翔館」に変身するまでの歴史は,「文翔館」でもらったリーフレットB)を見ると:

1876年(明治9年)山形県が成立
1877年(明治10年)初代の県庁舎が完成
1883年(明治16年)初代の県会議事堂が完成
1911年(明治44年)初代の庁舎と議事堂が「山形市北大火」で焼失(5月)
1916年(大正5年)二代目の庁舎と議事堂(現在の「文翔館」)が完成(6月)
1975年(昭和50年)県庁が移転;
旧庁舎と旧議事堂の文化財としての保存を決定
1984年(昭和59年)重要文化財に指定(12月)
1986年(昭和61年)修理工事が開始
1995年(平成7年)修理工事が完了(9月);
「文翔館」としての利用を開始(10月1日)

ということのようでした。

館内を案内してくれた方は,上の「年表」には出てこない,太平洋戦争(1941-1945年)のころから庁舎の移転(1975年)までの「苦境」や,重要文化財に指定されてからの修理工事での「苦労」について詳しく教えてくれたのですが,私が,それについて書きはじめても,記憶があやふやなところも少なくありませんので,このページが「いつまでたっても(できあがらない)」ということになりそうです。(1時間の予定でお願いした「館内ツアー」が2時間半ちかくなってしまうくらい詳しく説明してもらったのに,なんの記事にもできないのは口惜しいのですが,あきらめることに決めました。)

「文翔館」の内部の様子や修理工事については,「山形県生涯学習文化財団」の公式サイトの「山形県郷土館 文翔館」というページ(http://www.gakushubunka.jp/bunsyokan/)に詳しい説明がありました。

館内の様子(や外観)については「館内紹介」のページで;修理工事については「文翔館とは」のページから進んだ「復元の記録」のページで紹介されています。

ここから下の写真は,「文翔館」のサイトに掲載されている写真には及びもつかないものばかりですが,「行ってきました」という記念と記憶のために貼っておこうと思います。



旧県庁舎の正面の幅は60メートルほどあるようですが,これだけ大きいと,文翔館の庭のなかから撮った写真には,正面から撮っても,少し斜めから撮っても建物の全体が入りませんでした - 私のカメラの都合で「そう」なっただけのことですが。


中央階段室のステンドグラス

窓は2階と3階のあいだの踊り場にあり,中庭に向かって開いています。



正庁(今日の感覚でいうと,講堂になるそうです。)

玄関ホール(F2)の上(F3)にあり,大きさでは庁舎内で「いちばん」,室内の装飾でも「五指に入る」レベルだったと思います。


寄木の床(高等官食堂,F3)
左の写真の,傷のある床は創建時(1916年,大正5年)からのもの;右の写真の,傷のない床は修理工事(1986-95年,昭和61年-平成7年)で作りなおされたものだろうと思います。
館内の床はすべて(あるいは「ほとんど」だったのかも知れませんが)寄木になっていました。寄木の模様は,おなじ模様がいくつかの部屋で使われていたかも知れませんが,部屋ごとにちがっていたような気がします。

正面の中央(3階の屋根の上)にある時計塔は,太平洋戦争のころの「空襲対策」でひどい姿になっていたそうですが,復元工事(1985-96)によって,創建時の姿にもどったのだということです(屋根や館内の様子も,おなじような経験をしたようです - 館内を案内してくれた方に教えてもらったことですので確かです - 私の聞きまちがいや思いちがいがなければ,という断りは要りそうですが。

時計塔

中庭に面した外壁
壁に使われている煉瓦の色が,2階までと3階でちがうのは,煉瓦を焼く窯が代わった(途中で窯が壊れ,それ以降の煉瓦は,新しく造った別の窯で焼いた)からだということでした。

「文翔館」で使われた煉瓦は埼玉県の深谷で焼かれたということですが,碓氷峠の「めがね橋(碓井第三橋梁)」の煉瓦も深谷産だったと思います - なぜ,こんなことを覚えているのかを,ちゃんと思いだすことができないのですが,『百姓oyazi日記』というブログサイト(https://blogs.yahoo.co.jp/gogo_mouth)に「めがね橋」のことを書いた記事(2014年11月7日)があり,そこに「この煉瓦は深谷市の煉瓦工場が製造したものを使用したものと思われる」という文がありますので,「めがね橋の煉瓦は深谷産」という私の記憶も「大丈夫」なのではないかと思います。

ちなみに,「めがね橋」は1893年(明治26年)の竣工;「文翔館」は1916(大正5年)の竣工ですが,深谷市の公式サイト(www.city.fukaya.saitama.jp)には:

深谷には明治20年(1887年)から操業を続けている日本煉瓦製造株式会社というレンガ工場がありました。

という記事がありますので,「めがね橋」も「文翔館」も深谷の煉瓦で造られたというのも,かなり確かなことのような気がします。ちなみに,この会社は2006年(平成18年)に廃業W)するまで続いていたようです。




1) 山本敏夫: 新潟県野草図鑑<Ⅰ>, 新潟日報事業社, 321pp., 1998(改装版第2刷)
2) 山本敏夫: 新潟県野草図鑑<Ⅱ>, 新潟日報事業社, 307pp., 1998(改装版第2刷)
3) 山本敏夫: 新潟県樹木図鑑, 新潟日報事業社, 302pp., 1999(改装版第2刷)
4) 清水建美: 図説 植物用語事典, 八坂書房, 323pp., 2010(初版第6刷)
5) 牧野富太郎(原著): 新牧野日本植物圖鑑, 大橋広好・他(編), 北隆館, 1458pp., 2008. 11
6) 邑田 仁, 米倉浩司(編): APG原色牧野植物大図鑑,北隆館,Ⅰ〔ソテツ科~バラ科〕,11+647pp., 2012. 4; Ⅱ〔グミ科~セリ科〕, 11+887pp., 2013. 3
7) 大橋広好・他4(編): 改訂新版 日本の野生植物,平凡社,1: 391+図版 272pp., 2015. 12; 2: 381pp.+図版 256pp., 2016. 9; 3: 338pp+図版264pp., 338pp. +図版 264pp.; 4: 348+図版 256pp., 2017. 3
B) 山形県生涯学習文化財団『山形県郷土館 文翔館 国指定重要文化財「旧県庁舎および県会議事堂」』A5版リーフレット,表紙+7pp., 発行年不明
O) 乙宝寺の公式ウェブサイト(http://oppouji.info/)
W) Wikipedia (https://ja.wikipedia.org/wiki/)


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