このページができたのは:2018年1月26日



2017年9月24日~10月2日
 
岡山-島根-鳥取-福井
 
<その1: 9月24日~26日>
 
9月24日(日)晴<長岡-米原-総社>
25日(月)晴<総社-高梁-三次-雲南(加茂岩倉遺跡)-出雲市斐川町(荒神谷遺跡)-出雲>
26日(火)晴<出雲-松江>
27日(水)朝のうち曇-昼前から雨<松江>
28日(木)昼前まで雨-昼過ぎから晴<松江-美保関-大山-真庭(蒜山高原)>
29日(金)晴-夕方から曇<真庭-倉吉-鳥取(白兎海岸)-竹野>
30日(土)晴<竹野-宮津(天橋立)-伊根町-京丹後>
10月1日(日)晴-夕方から曇<京丹後-小浜(熊野宿)-金沢>
2日(月)曇<金沢-長岡>


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このページで,上付きの数字や文字を付けたところは,ページの最後にまとめて示した本やウェブサイトからの引用です。


1年まえの「兵庫-岡山-広島」のつづきということで,「島根-鳥取」に行ってきました - というよりも,県の名前ではなく,昔の,令制国や七道の名前を使って:

去年は: 山陽道を「播磨-備前-備中-備後」のように下りながら;
今年は: 山陰道を「出雲-伯耆-因幡-但馬-丹後」のように上りながら

遊んできましたというほうが,もう少し分かりやすくなりそうです - 私には,国の境があまりよく分かっていないという弱みがありますので,それはそれで困ることもあるのですが。

私たちの旅行は,自宅を出てから自宅に戻るまでのドライブ旅行で,飛行機や新幹線は使いませんし,往き帰りの長い距離をのぞけば,あまり高速道路を走ることもありません。車での移動のスピード感と律令国の大きさは(とくに,山陽・山陰はそうですが)馴染みがよいような気がします - もちろん,車で走るのだって,昔の旅にくらべれば,はるかに速いとは思うのですが。


1日目(9月24日,日)


山陰旅行の1枚目の写真が(山陽道の)備中国の国分寺というのもヘンな話しなのですが,2日目の計画との兼ね合いで,こういうことになりました。

長岡から高速道路を「北陸-名神-中国-山陽」のように乗りついで,1日目の宿がある総社まで来てみると,夕暮れにはしばらく時間がありそうでした。それに,総社へは1年まえにも来たことがあり,少しは土地勘がありましたので,「ちょっと(寄ってみようか)」ということになりました。去年の総社は,ときどき雨も落ちてくるような曇り空でしたので,「もういちど(こんどは天気の好いときに)」と思っていたのですが,それが意外に早く,夕方のわずかな時間だけだといっても,実現することになりました。
国分寺がある丘の下は水田になっていて,そこには「古代米」* だというイネが作られていました。「古代米」の穂は赤くなるものらしく,上の写真(画面の下のほう)にも,そんな様子が写っています。

*
車を駐めた駐車場のなかに「古代米」のことを説明した大きなパネルがあった(と思う)のですが,ナンとなく時間に追われていたせいで,チラッと見ただけで通りすぎてしまいました。パネルには「古代米」のことが詳しく,栽培されていた時代のことや,今になってまた栽培されるようになった経緯なども書いてあったような気がしますので,見すごしにしてしまったことが惜しまれます。

遠くからも赤く見ていた穂に近づくと,実が赤いのはもちろんですが,実に付いている糸のようなものも赤くなっているのが分かりました。糸のようなものは,芒**(のぎ)というものだったようでした。

この葉っぱをクリックすると,「古代米」を近くで撮った写真に替わります。実の本体も,実に付いている糸のようなもの(芒だろうと思うのですが)も赤くなっています。

** ウェブの百科事典W)には:

イネ科の植物の小穂を構成する鱗片(穎)の先端にある棘状の突起のこと。

のように説明されていました。

手元の参考書4)に載っている「穎花の模式図(p. 31)」を見ると,芒は,穎の先端にばかり付くものではなさそうで,外花穎の下のほうから伸びているように描いてありました。ちなみに,外花穎は外穎ともいい,「苞と考えられる」4)部分なのだということです。

芒という漢字には「のぎ」のほかに「ぼう」という読みかたもあるようですが,「のぎ」が訓;「ぼう」が音という関係なのだろうと思います。

イネはイネでも,コシヒカリのような「現代米」には芒は「ない」とか,あっても退化して「あるかなしか」になっているのだと聞いていましたので,「古代米」の長い(しかも赤い)芒は,イネのことをよく知らない私が見ても,なかなか衝撃的でした。

そのときも,それからしばらくたってからも,「古代米」の立派は芒は「古代の証(なのかも知れないネ)」と思ったりもしたのですが,旅行のあとに,「イネ,古代米,芒」をキーワードにして,ウェブを少し彷徨うと,「コシヒカリの芒を見つけた」とか「今年は,コシヒカリに芒が付いた」とか「私が育てている『古代米』には芒がない」というような,「現代米」の芒のことを書いた記事がいくつも見つかって,イネの品種と芒の関係は,なかなか深いものらしいと分かってきました。

この葉っぱをクリックすると,「古代米」を近くで撮った,もう一枚の写真に替わります。画面のまん中に写っている穂は,芒だけが赤く,実は緑色をしています - 実は,まだ熟していなくて,これから熟して赤くなるのではないかと思います。
国分寺のまわりは「吉備風土記の丘県立自然公園」として整備されているのですが,西から東へ「国分寺跡,こうもり塚古墳,国分尼寺跡」が並んでいるあたり(それぞれの間隔は300メートルほど)は公園の「特別地域」ということになっていて,3つの場所をつなぐ遊歩道もあり,一回りしてくるのにちょうどよい広がりになっていました。

この葉っぱをクリックすると,「自然公園」の案内看板(岡山県が設置)を撮った写真に替わります。

「特別地域」のまわりには「普通地域」が広がって,そこには,2つの大きな古墳(東側の造山古墳(つくりやまこふん/ぞうざんこふん),西側の作山古墳(つくりやまこふん/さくざんこふん)も入っていました。

作山古墳は,1年まえに,私たちにとって初めての「古墳に登る」という経験をしたところです。古墳といっても,つまりはお墓ですので,その上を歩くというのはなかなか考えにくいことだったのですが,そのとき案内してくれた方に誘われて(それに,このあたりでは,小学校の校外活動でも登るのだという話しでしたし),「それなら(イーんじゃないの)」と思いながら登ってきました。(古墳のうえで,ヤブ蚊の猛烈な襲撃を受けたのは,被葬者のタタリだったのかも知れません - 痒さはフツーではありませんでしたが,命に別状はありませんでしたので,通り一遍の自然現象だったのかも知れませんが。)

古代米の田んぼのあいだを,見おぼえのある国分寺の五重塔を目指して進み,いちばん奥の田んぼのまえで右に折れ,1年まえに総社を案内してくれたボランティアガイドの方が:

国分尼寺の跡も,松林のなかに礎石が列んでいて,好いところなんだけれど(でも,今日の予定には入っていないんだよね)

と残念そうに話してくれたのを思いだしながら,国分尼寺(跡)に向かいました。
上の写真は金堂の跡で撮りました - これが,1年まえに話しに聞いた「松林のなかに列んでいる礎石」のようでした。

国分尼寺で見つかっている主な建物の跡は,「金堂と講堂」のほかにもうひとつ,「僧坊(尼寺ですので,尼坊(にぼう)というようです)か食堂(じきどう)」が加わって3つあるようでした。

ところが,これだけたくさんの礎石が残っているのは金堂の跡だけで,ほかの2つの建物の跡には,講堂のところには2つ残っているようですが,基壇の跡(盛り土)だけが見つかっているのだということです。だれが,どこへ持っていってしまったのかということは,ちょっと気になることですが,それについて書いているものには(まだ)たどりつけないままになっています。

境内に立っていた「金堂跡」という題名の解説板には:

 直径七〇センチメートルの円形の柱座(はしらざ)や地覆座(じぶくざ)をもつ大型の礎石がほぼ当初の位置に現存しており,創建時の建物は桁行(けたゆき)五間(約二〇メートル),梁間(はりま)四間(約一三メートル)であったことがわかります。
 礎石から推定される柱の太さは約七〇センチメートルで,極めて雄大な建物であったことが想像されます。

のような説明(前後の一段落ずつを省略しました)がありました。

柱座というのは,礎石の上面を平らにしたところのことだろうと思います - 上の写真でも,平らな部分を作ってあるのが分かります。平らな部分のまん中あたりに付いている円くて低い突起は,柱の横ずれを防ぐための「しかけ」なのだろうと思います - いつかどこかで,おなじようなものを見ながら,そんなことを教わったことがあるような,という,ちょっと頼りない記憶に助けられての想像ですが。

地覆座というのは,ウェブの国語辞典(https://kotobank.jp/word/)で,『デジタル大辞泉(小学館)』の「地覆」の解説のなかから,建物に関係しそうなところを拾ってみると:

地覆/地輻射/地伏 ジフク

《「じぶく」とも》
1 門・建物などの最下部に地面に接して取り付ける横木.また,家の入り口の敷居
2 建物の土台

ということでした。

だとすれば,「地覆座」というのは,横木や土台を乗せるために石を削ったところのことだろうと思うのですが,上の写真や,このページには貼っていない写真を何枚か見ても,どこが地覆座なのかは分かりませんでした - 本物を,もっとよく見てくればよかったのですが,いつもどおりの,先に立たない後悔になりました。

国分尼寺跡からの帰りみちに「こうもり塚古墳」に寄りました - 「墳長約100m・後円部径約55~60m」W)の前方後円墳だということです。

下の写真(2枚の左側)の視界には,墳丘のほとんど* が入っていると思うのですが,これを見て古墳だといい当てるのは,「そうだ」といわれれば「そうなんだろう」と思うことくらいはできそうですが,なんの助けもなしにということになると,「まず(無理なんじゃない)」という気がします。

* 「ほとんど」とはいっても,見えているのは前方後円墳の「前方部の前面(のほとんど)」ということですので,このアカマツ林を眺めて前方後円墳をイメージすることは,かなり(私にとってもは,絶望的に)難しいことのような気がします。その道のプロならば,それなりの勘のようなものが働いて,できるものなのかどうなのか - ちょっと知りたいような気がします(それが古墳で,しかも前方後円墳だということは,最後は遺構や遺物を調べたうえで判断するのだろうとは思うのですが)。
この古墳の石室は,横穴式石室という造りになっていて,羨道(せんどう)と玄室(げんしつ)という2つの部分(空間)でできているのだということです - 玄室というのは,石室の奥のほうにあって,棺が置かれる部屋;羨道というのは,石室の入口(墳丘の表面)から玄室の入口までの通路だと思えばよさそうです。また,羨道の始まりを羨門(せんもん);羨道から玄室への入口を玄門(げんもん)と呼ぶようです。

上の写真(2枚の右側)は,羨門のあたり(墳丘全体との関係でいえば,前方部の前面)の様子です。
「こうもり塚」には去年も来ているのですが,そのときは,地元のボランティアグループに案内をお願いしていたことが幸いし,玄室のなかに入れてもらえるという,思ってもみなかった幸運を引き当てることができました - 玄門のところには鉄の柵があって,案内をお願いしていなければ,そこで引き返してくるところでした。玄室のなかでは,立派な照明器具の助けをかりながら,いろいろと説明してもらったり,石室の壁(大きな石)や石棺にさわったり,石棺のなかを(これといったものは入ってはいませんでしたが)のぞいてくることができました。

古墳の玄室といえば,飛鳥の石舞台古墳でも入ったことがありますが,そちらは,玄室を覆っていた墳丘がすっかりなくなって,石室を造っている石がむき出しになっています(それに,羨道の「天井」もなくなっていたような気がします)ので,玄室のなかには大きな石の隙間(や玄門)から光が入り,かなり明るくなっていました - 「こうもり塚」の暗い玄室に入ってからは,石舞台の玄室が,これはべつに苦情や悪口ではありませんが,ちょっと壊れすぎて,あまり「らしく」ないように思えてきました。

この葉っぱをクリックすると,石舞台古墳の玄室を撮った写真〔2015年12月4日〕に替わります。
この葉っぱをクリックすると,石舞台古墳(全景)の写真〔2015年12月4日〕に替わります。
この日の「こうもり塚」へは,私たちだけで入りましたので,玄室のまえに作られた鉄の柵のところまでしか入れなかったのですが,それでも,柵の棒のあいだから,ストロボの助けを借りて,玄室のなかの様子を撮ってくることができました。去年,玄室のなかに入れてもらったときには,その雰囲気に圧倒されて,写真を撮ることも忘れていましたので,今回は,玄室のなかに入れなかったとはいっても,それなりの「成果」をあげてくることができました。

玄室と石棺□□□□□□□□□□□□□

玄室のまえから羨門


去年,総社にやってきたいちばんの目的は,鬼ノ城(きのじょう)の見物でした。国分寺や古墳にも,もちろん興味はあったのですが,旅行の計画を立てながらあれやこれやと調べているうちに,鬼ノ城という,古代の山城がなにやら途方もないもののように思えてきて,「これは(外せないね)」という考えになっていました - その影響を被って,国分尼寺(跡)や造山古墳が省かれてしまうという事態にもなったのですが。

実際に行ってみても,あまりに常識はずれなものを見たせいか,「おやおや(これって,なんナンだろう)」と思っただけで帰ってきてしまったのですが,おかげで,朝鮮式山城という名前くらいは覚えることができました。それと,朝鮮式山城との関係があるのかないのかは(不勉強のせいで)よく分からないままなのですが,九州や瀬戸内海の沿岸に,神護石(こうごいし)と呼ばれる,やはり古代の山城があるのだということも知ることができました - いろいろ勉強しちゃったね,というだけのことなのですが ...。

この葉っぱをクリックすると,去年の秋(2016年9月25日)に鬼ノ城に登って,復元された門や城壁を撮った写真に替わります。門は「平成16年に復元されました(岡山県庁,www.pref.okayama.jp/)」ということですので,この写真は復元されてから12年後の様子ということになります。

その鬼ノ城が,去年は天気がわるくて,総社の市内からは見えなかったのですが,この日は天気に恵まれて,市内からも見ることができました。鬼ノ城までは6キロほどの距離があったようですし,夕暮れがせまってうす暗くなってしまい,あまりよい写真にはなりませんでした。それでも,去年は見られなかったものを見ることができましたし,「去年は(あそこまで行ったんだ)」と思うとなんだかうれしくなって,「ひどい(写真だナー)」とは思うのですが,貼っておきたくなりました。


2日目(9月25日,月)


山陰旅行の2日目も,山陽路(備中)の観光で始まりました。

総社を出発してまず向かったのは,高梁(たかはし)にある備中松山城でした - そのために,今回の山陰旅行を,わざわざ山陽路から始めることになったのですが。

江戸時代の天守がそのまま残っている* 城を「現存天守十二城」と呼ぶようで,備中松山城も「十二城」のひとつです。
*
天守が「そのまま(残っている)」といっても,いま,私たちが見ているのは明治以降の修理によって復原された姿なのだろうと思います。明治維新を生きのびた天守も,そのほとんどが当時はずいぶん傷んでいたようですし,幕末ちかくに造られたり修理された天守でも,木造建物の宿命で,それから150年ほどのあいだには,きっと修理が必要になっただろうと思います。

奈良文化財研究所の「なぶんけんブログ(https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/)」を見ると:

建物の「ふくげん」には「復」と「復」のふたとおりがあって:

「復原」というのは,昔からの建物が残っているときに,その「建物の改造の痕跡をもとに,改造前の姿に戻すこと」,「例えば,屋根が瓦葺(ぶ)きから後世に銅板葺きに変わっていたものを」瓦葺きに戻すこと(そのような目的で「修理」すること);

「復元」というのは,「遺跡で発掘される建物の痕跡(遺構)から,上部構造を考えること」,つまり,柱穴や礎石の配置をもとに,そこにあったと考えられる建物を「新築」すること

を意味するのだということでした。(「十二城」の天守は「復原」で,総社の鬼ノ城(の門)は「復元」ということになるようです。)
そんな「十二」に数えられる城は,およそ北から南(場合によっては,東から西)の順に:

弘前城(青森県)
松本城(長野県)
丸岡城(福井県)○
犬山城(愛知県)○
彦根城(滋賀県)○
姫路城(兵庫県)○
備中松山城(岡山県高梁市)●
松江城(島根県)●
丸亀城(香川県)○
伊予松山城(愛媛県)○
高知城(高知県)○
宇和島城(愛媛県)○

だということです。

このなかで,私たちが行ったことがあるところが8か所(上のリストで○印)になりました -「ここまで来たら(あと4つ)」ということで欲が出て,今回は,上のリストで●を付けた「2つを(見てくるか)」という計画になりました。今回の2つのあとに残るのは,なにも印が付いていない2つだけになりますので,そう遠からず「12」すべても「達成」できそうな気がしています。
高梁の市内(65.7メートルの水準点があるところ)で,北に向かって走っていたR180から右に折れ,まちの東にある臥牛山を目指しました。

臥牛山には松山W)という呼びかたもあるようですので,それが松山城という名前の元になったのかも知れません - ところが,藩の名前は,江戸時代を通じてずっと,備中松山藩だったということですので,藩の名前がそのまま城の名前に使われたのかも知れません - でも,そうなると,藩の名前のなかにある「松山って(ナンなんだ)」と気になってきます。城があるのが松山ですが,標高が5百メートルにも満たないような山の名前が藩の名前になることなんてあったのだろうかと気になって来ます。

おなじ松山城でも,伊予国の松山城は,城がある山は勝山とか城山W)というようですので,城の名前は,まちの名前から取っているのだろうと思います - その伝で,こちらの松山城にも,高梁城W)と呼ばれることがあるそうです。

明治時代になると,明治4(1871)年の廃藩置県までの何年間かは,松山藩が備中にも伊予にもあるのは紛らわしいということで,こちらの松山藩は高梁藩と名乗るようになったということですが,そうなると,城の名前ももっぱら高梁城ということになったかも知れません - もっとも,そのころになると「廃城令」が出される明治6(1873)年もまぢかで,城そのものの心配をする人も,ましてや,城の名前などを気にする人もあまりいなかったような気もします - それでも,もしかすると,ひどく几帳面な人がいて(というよりも,役所があって)城の名前を変えたことを書き残していないともかぎりません。
松山城というのは,近世の城としてはめずらしい山城** で,私たちが天守に攻めのぼるには:

距離標高差
自分の車で:
市内(R180)~城見橋公園
1.5 km120 m
シャトルバスで:城見橋公園~鞴峠(ふいごとうげ)1.3 km110 m
自分の足で:鞴峠~本丸(天守)500 m125 m

のような段取りが必要でした。

このなかで,松山城らしいのは,なんといっても最後の「500メートルの距離と125メートルの標高差」で,これまでに,平山城といわれるところで経験したよりも,なかり手応えのある石段や坂みちでした。(「十二城」のうちの10までは平山城で,平山城ではないのは,山城の備中松山城と平城の松本城だけだということです。)
** 備中松山城の本丸は,臥牛山(松山)の最高峰(大松山,476 m)から南に400メートルほどのところにある,標高が420メートルほどの「肩」のようなところ(小松山)にあって,高梁の市内との標高差は350メートほどになります。大松山には大松山城跡という,もっと古い城の遺構があるということですので,時間があれば行ってみたかったのですが,先の予定が詰まっていましたので,(今回は)あきらめることになりました。

この葉っぱをクリックすると,本丸に向かうみちに立っていた案内標識の写真に替わります。上の表に書いた「鞴峠~本丸(天守)」の距離とは,ちょっとちがう数字(「ふいご峠-備中松山城」の距離が700メートル)になっていますが,上の表の数字は地図上でザッと測った値ですので,この案内標識に書いてあることのほうが正確なのだろうと思います。
下の3枚の写真は:

左: 二の丸から見た天守 - 石垣の上に立っている2つの建物は本丸の「六の平櫓」(左)と「五の平櫓」(右)で,そのあいだが「本丸南門」になっています。本丸には「南門」のほかに,東側と北側(天守の裏側)にもあるのですが,南門が「正門」のようでした。
中: 二重櫓 - 本丸のうしろの「後曲輪」の奥にあり,岩盤のうえに石垣を築いて建てられています。
右: 大手門(跡)の内側から見た「三の丸,厩曲輪,二の丸」の石垣 - 石垣の一部として自然の岩が組み込まれていて,これも山城らしいところです。

なのですが,天守(本丸)の写真はべつとして,右の2枚の写真には「山城!」の雰囲気があふれているような気がします。

この葉っぱをクリックすると,本丸から天守を撮った写真に替わります(正面から)。
この葉っぱをクリックすると,本丸から天守を撮った,もう一枚の写真に替わります(左前方から)。
このところ(といっても,もう10年ほどにもなりますか),雲海に浮いているように見える山城が「天空の城」と呼ばれるようになり(その始まりは,兵庫県朝来(あさご)市)の竹田城跡だったと思います),それを見に行こうという人も増えているようです。高梁の松山城も「天空の城」の名乗りを上げているようですが,いくつもの建物が残っている訳ですので(そのなかの一つは「現存天守」ですし),石垣だけが浮かんでいるところよりも,人が呼べそうな気もします。

上の写真(3枚のいちばん左;天守の写真)には,「天空の城」の片鱗があらわれています。本丸への入場券(入城券)の係の人が「本格的な雲海は11月になってからなのだけれど,今朝の霧はなかなかだった」というような話をしてくれました。たしかに,山を登っているあいだには,霧がもっと濃いこともあったのですが,天守が見えるところまで来たら,ちょうど霧が晴れるところだったようでした(写真には,あるかなしかの霧だけが写りました)。

ちなみに,「天空の城」になった松山城を見るには,城からほぼ北東へ1.2キロほどのところにある「備中松山城展望台」というところがよいそうです。私たちは「天空」の眺めは端からあきらめていましたので行きませんでしたが,雲海があってもなくても,少し遠くから見る松山城というのもわるくないような気がします - 「次のときには(展望台へも)」ということで ...。

左の写真は,二の丸から少し下ったあたり(だったと思うのですが)から見た高梁のまちで,ほぼ北から南に向かっての眺めです。藩政時代には備中松山藩の城下だったところです。ちなみに,藩の石高は,藩主の交替とともに「6万5千,5万,6万5千,6万,5万(明治2年からは2万石)」W)のように変わったということですが,一口には5-6万石と思えばよいのだろうと思います。

この葉っぱをクリックすると,画面の中央が高梁市役所になっている地図(電子国土Web/地理院地図/国土地理院)を示します - 新しいウィンドウを開きます。

市街地は,左の写真には南のほうの半分くらいしか写っていないのですが,高梁川に沿ってできた南北(川沿い)が2.5キロほど;東西が1キロほど(南の端のいちばん広いところ)の平地(盆地)に広がっていて,大よその形としては二等辺三角形なのですが,東のほうの谷すじなどを含めると,面積としては1.5平方キロメートルほどになります。
高梁川や川沿いの国道(R180)は,画面の右側にある木の陰になってしまって見えませんが,鉄道の駅(JR伯備線*** の備中高梁駅)は,線路が山に近いところを通っているので,この写真にも入っています(画面の中央あたりにある大きな白い建物の手まえです)。線路が山に近いところを通っているのは,たぶん,川沿いよりも地盤がしっかりしているから(そのような場所を選んで線路を敷いたから)なのだろうと思います - そういうことは,備中高梁駅が開業されたのは大正15(1926)年W)だそうですが,明治・大正から昭和初期の鉄道工事にはよくあったということです。

*** 伯耆国の「伯」と備中国の「備」をとって伯備線というようです。伯備線は,山陰と山陽をむすぶ鉄道(これを指す「陰陽連絡路線」という用語もあるようです)のなかでもっとも多くの運転本数があり,「連絡線」のなかで「幹線」に分類されているただ一つの路線だということですW)。ちなみに,JRの路線は輸送実績にしたがって「幹線と地方交通線」に分けられ,運賃もそれぞれに(地方交通線のほうが少し高く)決められるのだということですW)

陰陽連絡路線には:

伯備線(倉敷駅-伯耆大山駅;備中-伯耆)
播但線(姫路駅-和田山駅(朝来市);播磨-但馬)
山口線(新山口駅-益田駅;長門-石見)

のように1つの路線で「陰陽」を結んでいるものもありますが,2つの路線を組み合わせて連絡する:

姫新線(姫路駅-新見駅;播磨-備中)と
 因美線(鳥取駅-東津山駅;因幡-美作
津山線(岡山駅-津山駅;備前-美作)と因美線
芸備線(広島駅-備中神代駅(新見市);安芸-備中)と
 木次線(宍道駅(松江市)-備後落合駅(庄原市);出雲-備後)

のようなものも含めているようです - ちゃんと調べたわけではありませんが,路線としては別でも,列車の運行としては続いている(乗り入れている)ことがあるのだろうと思います。


美作国は,吉備国が7世紀後半に「備前-備中-備後」に分けられたあと,奈良時代の初め(和銅6年,713年)に,備前国から6つの郡を分けて設けられたW)のだということです。

ウェブの百科事典W)の「美作国」の項には:

美作の分立は,かつての吉備国分解の最終段階であり,鉄資源を吉備氏から直接,ヤマト政権の管轄下に置くことによる吉備氏弱体化の意図があったとされる。

のような説明がありました。

午前中に高梁(備中松山城)で遊んだあとは,R180にもどって北(少し西)へ向かい,高梁川の渓のなかをJRの伯備線と付かず離れずで走って,瀬戸内海からも日本海からもちょうど同じような距離* にある新見を目指しました。新見は姫新線(姫路-新見)の一方のターミナルで,「姫路-津山-新見」と来たあとに,伯備線に乗りかえれば,山陰の米子に向かうことができます(「陰陽連絡路線」の一部にあたります)が,そこはまだ備中国で,山陽道に含まれます。

* 新見から児島湾(瀬戸内海)と美保湾(日本海)までの距離を測ってみると,どちらも55キロに少しだけ足りない,まったく同じといてもよさそうな距離でした。
新見からは山陽自動車道で,西へ向かって,備後国の三次(みよし)** まで;そこから松江自動車道で北へ向かって,次の目的地(加茂岩倉遺跡)がある出雲国の雲南を目指しました。今回の旅行のなかでは,この半日がいちばん慌ただしいところだったような気がします。

** 「みよし」という名前の市は,備後国の三次のほかに,阿波国にもあって,こちらは三好と書くようです。「みよし」というところが三次のほかにもあるということはナンとなくは知っていたのですが,難読地名の三次が「みよし」と読めると,それですっかり満足してしまい,もうひとつの「みよし」にまでは手が回らないということをくり返していました。今回も,三次の読みかたを確かめようと思いながら「みよし」と打ってみると,変換の候補として,三次よりもまえに三好が出てきましたので,それがきっかけになり,三好というところ(市)は徳島県にあるのだということが分かりました。

ずっとまえから,「出雲のどこかに,たくさんの銅鐸が出土したところがあるらしい」ということは知っていたのですが,この旅行の準備を始めるまでは,それが「ここ(加茂岩倉遺跡)」で,銅鐸の数が39個だということまでは知りませんでした。

旅行の計画を立てようと,本やウェブの旅行案内を読むついでに,「素人のための考古学」のような解説書を読んでみると,39個もの銅鐸がまとまって出てきたというのが,なかなかスゴイことらしいと分かってきました - それで,出雲に行って「ここ」を外すという手はないだろうという考えになってきました。

下の写真が39個の銅鐸が出てきたところで,植物に覆われている斜面のうえの,土が見えているところが「そこ」なのだということでした。

銅鐸が見つかったところには,そのときの様子が,レプリカを使って再現されていました。銅鐸を「掘り当てた」のは,農道建設の工事をしていた重機だということで,重機のシャベルが土を掻きとったあとが,掘りだされた銅鐸が散らばっている様子も含めて分かるようになっていました - 下の写真がそこの様子です。

銅鐸がレプリカなのはもちろんですが,土の表面も,土と見分けがつかない色のプラスチックで覆われて,見事な「レプリカ状態」になっていました。指先で叩いてみれば,それらしい音もしますし,掌を押しつけてみれば,それらしい感触もあるのですが,なにも知らずに見ただけで,それと分かることはまずなさそうでした。39個の銅鐸に秘められた歴史には,本やウェブの記事に書いてある諸説紛々をそのまま受け入れるしかない私にも,この屋外展示(の保存技術)には,ナンの迷いもなく感動したり,納得したりしてしまいました。


上の写真の建物は,出土した銅鐸のレプリカや,遺跡について解説するパネルが展示してある「加茂岩倉遺跡ガイダンス」です。(出土した銅鐸は,出雲大社のとなりにある「島根県立古代出雲歴史博物館」に移して展示してありましたので,「本物」を目にするのは翌日のことになりました。)

「ガイダンス」では,発掘の様子や出土した銅鐸の特徴を解説するビディオを見せてもらったり,銅鐸のことをいろいろと,1時間以上もかけて説明してもらうことができました。ここへ来ようと思ってから,銅鐸について書いてある本をあれこれ読んでみたりもしたのですが,本で読むのと,レプリカだとはいっても「実物」をまえにして人の話をきくのとでは大ちがいで(こちらのレベルに合わせて話してくれたことも大きいと思うのですが),ずいぶんたくさんのことを知ることができました。

遺跡と駐車場のあいだの道路のわきに,ヒトが植えたもののようなのですが,タムシバの木がありました。

タムシバのことでは,少しまえに,ウェブで読んだ記事* に:

西日本では樹高15mを越える高木になりますが,北日本の多雪地域では樹高3~4mの低木に過ぎません。

という説明があったのを思いだし,そのタムシバの幹がしっかりしていたり,枝ぶりがすっきりしているのを,島根のタムシバが「高木だから(なんじゃない)」と思いながら眺めてきました。その木の背丈は3-4メートルしかないのですが,それは,まだ若い木だからなのだろうと思います - 若いといっても,実が生っている(ということは,花が咲いた)のですから,成木ということになりそうですが。

*
高橋和規『モクレン科タムシバの種分化』「森林総合研究所関西支所研究情報」No.98, p.2, 2010.11

この葉っぱをクリックすると,新潟の山で撮ったタムシバの写真〔2007年4月29日,花見山(五泉市)〕に替わります。春の,葉っぱが開くまえの様子ですので,余計にそう見えるのかも知れませんが,太さのちがう枝がゴチャゴチャと絡み合うようになっていて,いかにも低木らしい枝ぶりです。背丈は3メートルほどだったような気がします。

その記事* には:

高木の花の雄しべ 数が概ね40~60,雌しべ数30~50であるのに対し,多雪地域の低木では雄しべ数50~70,雌しべ数15~40

のような説明もあり,高木型と低木型のタムシバの花のなかを撮った写真も載っていました。

「私が見なれたタムシバは(ドーなんだろう)」と思いながら,近くの山で撮った写真を引っぱり出して数えてみると,「雄しべは50と60のあいだ;雌しべは30くらい」のようで,「多雪地域の低木」ならではの結果になりました。

この葉っぱをクリックすると,新潟のタムシバの花の内側を撮った写真〔2011年4月30日,八方台(長岡市)〕に替わります。
この葉っぱをクリックすると,花を外側から撮った写真〔2009年4月29日,八方台(長岡市)〕に替わります - 花の内側を撮った写真をはったので,これといった目的があるわけではありませんが,外側からの写真も貼っておきたくなりました。
実(仮種皮)の色や越冬芽(花芽)の様子には,島根(西日本;高木)と新潟(東日本;低木)での「ちがいはない(みたいだね)」と思いながら,下の写真を撮ってきました。集合果(集合袋果)の大きさは,雌しべの数が高木のほうが多いので,ごく単純な理屈では,高木のほうが大きくなりそうなのですが,写真を見ただけで,それと分かるほどではなさそうでした。

この葉っぱをクリックすると,新潟のタムシバの実を撮った写真〔2011年9月3日,三ノ峠山(長岡市)〕に替わります。
この葉っぱをクリックすると,新潟のタムシバの越冬芽(花芽)を撮った写真〔2008年8月31日,八方台(長岡市)〕に替わります。
葉っぱの様子にも,大したちがいはないようですが,強いていえば,こちら(高木)のほうが,新潟のタムシバ(低木)よりも,厚手で,表面に艶があるような気がします。

この葉っぱをクリックすると,新潟のタムシバの葉っぱの様子が分かる写真〔2005年9月10日,守門岳(魚沼市)〕に替わります。果皮が裂けるまえの実(集合袋果)も写っています。

ウェブで読んだ記事* には:

葉の形にも見た目の違いがあり,高木は小振りな厚い葉を持ちますが,低木の葉は,波打つような薄く大きな葉となります。

という説明がありました。(ここのタムシバの葉っぱの大きさは,私には,新潟のタムシバとあまりちがわないように見えたのですが,それは,ここのタムシバが若い木だったからなのかも知れません - 若い木というのは,どんどん大きくなるために,大きな葉っぱをつけるものだと,あちこちで読んだり聞いたりしたことがあります。)
島根と新潟のタムシバで,「ここは(ちょっとちがうかな)」と思ったのは実(集合袋果)の数でした - 新潟で,こんなにたくさんの実が生っているのを見たことはないような気がします。実がたくさん付いているということは,花がたくさん咲いたということで,ここのタムシバはヒトが植えたもののようですので,花つきのよい木を選んでいるのかも知れません - あるいは,新潟(の山)のタムシバが,花の数に比べて,実を結ぶもの(集合袋果)が少ないからということなのかも知れません。どちらもまったく根拠のない想像で,どちらが本当らしいかは(あるいは,ちがう理由があるのかは)まったく見当がつきません。

この葉っぱをクリックすると,新潟県のタムシバの写真を集めて貼ったページに移ります。(新しいウィンドウをひらきます。)

出雲で,青銅器がたくさん出土した遺跡といえば,「加茂岩倉」とならんで「神庭荒神谷(かんばこうじんだに)」が有名ですが,こちらについても,私にとっては長いこと,詳しい場所はおろか,遺跡の正確な名前さえもあやふやなままになっていました。

2つの遺跡のことが,もう少しちゃんと分かってきたのは,「山陰へ(行こう)」と決めてから3か月ほども経って,計画づくりも大詰めに近づいたころで:

遺跡 出土品(青銅器) 発見された年 大よその場所
神庭荒神谷 銅剣358本,銅鐸6個,銅矛16本 1984年(33年まえ) 出雲市斐川町神庭
山陰自動車道の斐川ICの北東1.3キロ
加茂岩倉 銅鐸39個 1996年(21年まえ) 雲南市加茂町岩倉
松江自動車道の加茂岩倉PAの北西500メートル

のようなことらしいと分かってきました。

2つの遺跡の発見が20年,30年まえのことだというは,ちょっと意外だったのですが,そのころの私にはほとんど関心のない出来ごとで,新聞やテレビで報道されたのを見ても,あやふやな記憶さえも残さずに,すぐに忘れてしまったのだろうと思います。

2つの遺跡は,直線距離では4キロほどしか離れていないのですが,車で走ると,あいだに高さが300メートルほどの山があって遠まわりしなければならず,12キロほどになるようでした。

今度の旅行で,2つの青銅器遺跡(という用語があるのかどうかは知りませんが)をどうしようか - つまり:

1)
2)
3)
しっかり両方に行ってくる
どちらか一方だけに行ってくる;一方だけにするなら,どちらをとるか
初めのころの計画には入っていなかったところなので,次回にまわす

のどれを選ぶかということが「問題」になりました。

結局,原案としては「あいだ」をとって,「どちらか一方」としておいて,「どちら」をとるかということでは,出土品の数や種類では敵わないようですが,銅剣よりも銅鐸のほうが,表面に絵が描いてあって面白そうだからイーんじゃないの(つまり,「加茂岩倉」にしちゃおうか)という,かなりいい加減な考えに落ちつきました(もちろん,「時間があったら(「荒神谷」へも行っちゃおう)」という下心があってのことですが)。

実際にはどうなったのかというと,このような写真が撮れていることからも分かるように,「加茂岩倉」のあとに時間があって,「神庭荒神谷」へも行ってくることができました。

荒神谷遺跡は,「荒神谷史跡公園」という大きな公園の一画にあり(というよりも,遺跡が「きっかけ」になり,遺跡のまわりに大きな公園ができたのだろうと思います),遺跡に(直接に)関係するのは,国指定史跡になっている「荒神谷遺跡」と「荒神谷博物館」の2つだけでした - 「史跡公園」のなかには,バーベキューサイトのような設備もあって,「春から秋にかけてバーベキューやハイキングをする人たちで賑わ」うようなところ(荒神谷博物館のウェブサイト,http://www.kojindani.jp/museum/)になっているようでした。

「遺跡」のほうは,左の写真のような屋外展示で,いつでも見られるのですが,「博物館」のほうは午後5時に閉館(入館は4時半まで)ということでした。

私たちが博物館に入ったのが4時半ちょうどで(間に合ってよかったですね),5時まで館内を見せてもらってから,200メートルほど離れたところにある「遺跡」のほうへ行ってみました。日没まであと1時間という頃あいでしたし,空が少し曇ってきて,うす暗くなりはじめてはいたのですが,こちらにも,どうにか間に合いました - ただ眺めて,解説板を読んで,写真を撮ってきたというだけのことですが。
「遺跡」というのは,上の写真のような「発掘調査の跡」のことで,緩やかな谷の,「遺跡」があるのとは反対側の斜面に造られた展望デッキから眺めるようになっていました。

2つある発掘痕(という言葉があるかどうかは分かりませんが)のうちの,左側の大きいほうで銅剣が見つかったのが1984年(昭和59年);右側の小さいほうで銅鐸と銅矛が見つかったのが1985年(昭和60年)だということでした。

銅剣

銅鐸と銅矛
左右の発掘痕がおなじときにできたのではないようですので,左のほうの銅剣と,右のほうの「銅鐸と銅矛」がいちどに見られるということは,事実としては,きっとなかったのだろうと思います - 1984年に銅剣が掘りだされたときには,右側の穴はまだなかったわけですし,1985年に銅鐸と銅剣が掘りだされたときには,左側の穴には,銅剣はどこかに移してい保管されたあとで,もう,なにも残っていなかったのだろうという想像です。

展望デッキから「遺跡」を眺めたときには,「どのように掘ったら,どのように銅剣と銅鐸・銅矛が出てきたのか」を示しているのだと思ったのですが,本当はそうではなくて,発掘調査が行われるまえの地中の様子を(つまり,青銅器が「埋まって」いた様子を「土がじゃまをしていなければ(このように見えたのだ)」と)示しているのだろうと思います - どちらだと思っても,大したちがいはなさそうですが。
加茂岩倉遺跡の,銅鐸が出土したところの土の表面がプラスチックで覆われていたことを思いだして気になったのが,こちらの発掘痕の土の表面がどうなっているのだろうということでした。地面に白っぽいものが付いているのを見ると,「なにか」をしてはあるのでしょうが,加茂岩倉遺跡でしていることに比べると,それほど本格的なことではなさそうに見えました。

発掘調査が行われたのは30年あまりもまえのことだというのに,掘ったあとが,掘った直後とあまり変わっていないように見えるのは,不思議に思うほどでした - 掘ったあとの土の表面をどのように保護しているのかということも気になったのですが,その手のことは,ウェブをちょっと彷徨ったくらいでは,まったく分かりませんでした。
神庭荒神谷からの出土品も,加茂岩倉の銅鐸と同じように,出雲大社のとなりにある「島根県立古代出雲歴史博物館」に移して展示してありましたので,「358本と6個と16本」の本物を見るのは翌日のことになりました。


3日目(9月26日,火)

この日は「出雲で遊んで,松江で泊まる」という予定でした - ようやく山陰旅行になってきました。

「出雲で」といえば,出雲大社は外せませんが,あとは時間をみながら,出雲大社のちかくの2-3か所で遊んでこようかという考えでした。

出雲大社ではガイドツアーに参加する予定だったのですが,そのまえに少し時間がありましたので,出雲大社から1キロほど西にある「稲佐の浜」に行ってみました。

ここは:

神話の時代には,高天原から来た建御雷(タケミカヅチ)が葦原中国の大国主に国譲りを迫ったところですし,

いつからのことなのかは知りませんが,今でも,旧暦10月10日に出雲大社の神迎神事が行われるところ

だということで,「神話の国 出雲」のなかでも,なかなか「濃い」ところのようですので,「どんなところなのか(見ておきたいね)」という考えでした。

「この砂浜が(稲佐の浜だ)」と分かるのに欠かせないのが,左の写真の「弁天島」だろうと思います - 島の祠には,島の名前から考えて,弁天様が祀られているのだろうと思ったのですが,「神仏習合の頃には『弁財天』が祀られていましたが,明治のころから豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)が祀られて」* いるのだということです。

** 『出雲観光ガイド』出雲市観光協会ホームページ(www.izumo-kankou.gr.jp/)の「稲佐の浜」のページ

この葉っぱをクリックすると,ヒトの姿が入っている写真に替わります - 島の大よその大きさが分かります。

少し(10年くらい)まえに出版された本で弁天島の写真を見ると,島の頂のあたりにクロマツが一本,よい姿で写っているのですが,そのクロマツがなくなっていました - 数年まえに弱ってしまって,切られてしまった** のだということです。

** 『おいしい発見! うれしい体験!』「だんだんネットショップ」のスタッフブログ(https://ameblo.jp/dandan-netshop/)の2012年6月4日の記事

その記事には:

マツノザイセンチュウは発見されず,近年,市内で猛威を振るう松食い虫の被害ではなかった;

市によると,昭和初期の映像記録にクロマツの姿はなく,樹齢は70年以下とみられる;

頂上付近には、4月に抵抗性マツの苗10本が植栽されている

のような説明もありました。

クロマツが,松食い虫にやられたわけでもないのに,70年たらずで枯れてしまったのは,弁天島の環境が,クロマツにとって厳しすぎたから,ということになるのでしょうか。砂地に根を下ろしたクロマツが70年どころではない,百年単位の長寿を保っているという例は少なくないと思うのですが,「弁天島のように岩ばかりのところでは(そういうことにはなりにくい)」といわれれば,「きっと(そういうことなんだろう)」と思ってしまいそうな気がします。
稲佐の浜は,弁天島があってこその稲佐の浜で,それがなければただの砂浜ですので,「稲佐の浜って(こんなトコなんだ)」と分かるのにそれほどの時間はかかりませんでした - 弁天島の姿はたしかに好い眺めなのですが,いかにも小さな島ですので,こちらから,あちらから;近くから,遠くからと,いくら念入りに眺めていても,10分もすれば「もう(イーか)」ということになってきます。
稲佐の浜からは,天気の好い朝でしたので,三瓶山(さんべさん)がよく見えたはずなのですが,私たちには「国譲り神話」と「神迎(かみむかえ)」のことしか頭になく,「国引き神話」に登場する三瓶山のことは,すっかり抜け落ちていました - 三瓶山というのは,八束水臣津野命(やつかみずおみづぬのみこと)という,出雲の創造神が「新羅の岬の余った土地」を引いてきて,引くのに使った綱(いまでは「薗長浜(そののながはま)」になっているということですが)のはしを結びつけたところ(杭)なのだということです。稲佐の浜と三瓶山を結びつければ,あと5分か10分くらいは楽しめたのでしょうが,惜しいことをしてしまいました。
稲佐の浜での「用事」がすんでしまっても,ガイドツアーの受け付けに向かうにはまだ早すぎるようでしたので,駐車場のすみに立っていた案内看板を見てみると,海岸ぞいの住宅地のなかに「上宮(かみのみや)」と「下宮(しものみや)」という二つの神社があるらしいと分かりました。海岸からの距離は,近いほうの下宮が50メートルほど,遠いほうの上宮でも100メートルあまりといったところでしたので,行ってみようという話になりました。

上宮

上宮の境内にある3つの建物は,上の写真で左から右への順で「本殿,拝殿,門」のようでした。


下宮
神社のところにあった解説板を見ると,2つの神社はそれぞれに:

格式*
祭神
上宮:
摂社
素戔嗚尊(すさのおのみこと),八百萬神(やおよろずのかみ)
下宮:
末社
天照大御神(あまてらすおおみかみ)

のようになっているようでした。

天照大神と素戔嗚尊が「姉と弟」だったり,住んでいるのが「高天原(たかまがはら)と葦原堅州国(あしはらのかたすくに)」だということを思うと,神社の「上-下」も,「上宮に天照大神-下宮に素戔嗚尊」のようになりそうですが,そうはなら「ない」のが「やっぱり(出雲なんだネー)」と思わせるところでした。

*
摂社と末社の関係は,ウェブの百科事典W)の「摂末社」の項を見ると:

現在は摂末社に関する規定は特にないが,一般には,摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社,末社はそれ以外のものと区別され,格式は本社が最も高くそれに次いで摂社そして末社の順とされる。

のだということです。この説明を文字どおりに受けとれば,大國主命にとって,素戔嗚尊は「縁故の深い神」;天照大神は「それ以外(の神)」ということになってきます。

今回は行けなかったのですが,日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)でも,「上宮に素戔嗚尊-下宮に天照大神」のように祀られていて,稲佐の浜の「上宮-下宮」とおなじになっているようでした - これが出雲の国での「通例」ということになるのでしょうか。
上宮のところに立っていた解説板には:

由緒
一般に旧暦十月は神無月と云われていますが,これは全国の八百萬神々が大國主大神の許にお集まりになるからです。その為,出雲ではこの月を「神在月」と申しています。
この上宮に於いて生きとし生けるものの幸福と社会の繁栄の「縁」を結ばれる神議が行われます。

祭日
一月三日 五月十四日 旧暦十月十一日~十七日

のように書いてありました - これだけ大切なことが行われる場所ならば,姉の祀られている「下宮」をさしおいて(ということでもないのでしょうが)「上」になっても不思議なことではなさそうです。ちなみに,神社の名前は「上宮」にあった解説板には「かみのみや」という読み仮名つきで「上宮」;「下宮」にあった解説板には「下の宮」と書いてありました - 上宮と下宮に解説板はおなじ人が立てているようですので,書き方がちがうのはちょっと不思議な気もするのですが,いろいろな書き方があるということなのでしょう。

『出雲観光協会ホームページ 出雲観光ガイド』(http://www.izumo-kankou.gr.jp/)を見ると:

「旧暦十月十一日~十七日」の七日間が「神議(かむはかり)」の期間;

「神議」というのが,八百萬神が,男女の縁結びも含め,「人には予めそれとは知ることのできない人生諸般の事など」を相談して決める会議

だということです。

神在月に八百萬神が「泊まる」のが,東西の「十九社(じゅうくしゃ)」だということは知っていましたが,「会議」をするのが,上宮だとは知りませんでした。昔のことは,今よりも境内が大きかったような気がしますので分かりませんが,今では,八百萬神は出張先の出雲でも,境内を出たり入ったりという「通勤」をしながら神議してくれているようです - 「稲佐の浜」に結んでもらった縁で,面白いことが分かってしまいました。

出雲大社は,出雲観光協会の「【むすぶらり 神々の国を歩こう!】定時ガイド」というツアーに参加して見てきました。参詣道(神門通り)にある観光案内所(「おもてなしステーション」)から出発し,神門通りを150メートルほど歩いたあと,境内を「勢溜-松の参道-拝殿-本殿-神楽殿」のように回ってくる「90分/約1.5 km」のコースでした。

出雲大社は,建物の様子も境内の雰囲気もなかなかよいところだったのですが,私たちが参加したガイドツアーは,20人ほどの参加者をひとからげにして「引率」するタイプでしたので,終わってみると,「ちょっと(もの足りなかったかナー)」という感想になりました。

参加費が500円という格安ツアーでしたので,20人という人数も「ショーがない(のかも知れないね)」と思わないでもないのですが,ここまで多いと,どんなに上手なガイドにも,通り一遍の案内をそつなくこなすという以上の工夫はないのだろうと同情したくなりました。(500円という安さに飛びついた「こちら」が間抜けだったのか;20人という人数を設定している「あちら」がお座なりなのか ...。このガイドツアーは,参加費がワンコインというのが謳い文句になっていたようですが,コインをビルに替えて(といっても,額面が最小の,ということですが),人数を半分(以下)にするというというような考えはどうでしょう。)
私たちは,この2-3年,どこへ行っても,できるだけガイドをお願いするようにしているのですが,「質より量(日数,回数)」の貧乏旅行のなかですることですので,あまり高い料金は払えません。お願いするのは:

無料でしてくれるボランティアガイド;
担当者の交通費だけでしてくれるボランティアガイド;
二人で2千円くらいで収まる(ボランティア的な)格安ガイド

のどれかということになるのですが,「20人まとめて」というスタイルに出合ったのは今回が初めてでした。これまでは,私たち二人だけでということがほとんど(十数回)で,私たちをふくめて4-5人ということが2-3回といったところでした。

ガイドしてもらうのは,二人だけでというのがいちばんなのですが,4-5人までならば,案内してくれる人は,説明のレベルをこちらに合わせてくれますし,見当はずれの質問にもていねいに答えてくれたりということもあります - これは,その場でのこととしてもありがたいですし,旅行のあとに,どこがドーだったと思いだすための手掛かりとしても,とても役に立ってくれます - それで,ボランティアガイドをお願いするというスタイルに「はまって」いるわけですが。

左の写真は,参道(「下り参道」)が始まるところにある「勢溜(せいどまり)」という小さな広場からの「神門通り(しんもんどおり)」の眺めです。

「神門通り」というのは,出雲大社の参詣道(門前のメインストリート)で,この日の午後に「旧大社駅」で見た,参詣道の歴史を書いた,「神門通りの成り立ち」という題名で,作った人の名前はないのですが,手づくり風の大きなポスターのなかに:
明治45年(1912年) 国鉄大社線の大社駅が開業
大正3年(1914年)宇迦橋(うがばし)が完成,参詣道(大社停車場線)が開通
大正4年(1915年)大鳥居* が完成,参詣道の「宇迦橋~出雲大社(勢溜)」を「神門通り」と命名
昭和後期~平成神門通り」の利用者が減少**
平成23年(2011年)
     ~現在***
本殿遷座祭に向けた「神門通り」の再生により,町並みは大きく変わり,
にぎわいを取り戻している。
のように登場していました。鉄道(大社線)と盛衰をともにし,盟友の大社線は姿を消してしまいましたが,神門通りには復活の気運がみちてきた,とでも見ればよさそうです。

* 上の写真で,遠くのほうに見えているのが大鳥居(宇迦橋の大鳥居)で,そこから境内への入口にある広場(勢溜(せいだまり))に立っている大鳥居の前までを「神門通り」と呼ぶようです。

** 「神門通り」を利用する人が減った原因は:
オイルショックによる観光客の減少
昭和48年(1973年)の外苑駐車場整備
平成2年(1990年)の大社線の廃止
自家用車利用の増加
のように説明されていました。

*** 本殿遷宮祭が行われたのは平成25年(2013年)5月だということですので,ポスターが作られたのは,その少しまえということになりそうです。
「出雲大社の下り参道」というのはよく耳にする言葉ですが,実際の地形も,確かにそのとおりで,神門通りを緩やかに登ってきたあとに,6-7段の石段を登って境内に入ると,本殿に向かう石畳の参道が下るようになりました。右の写真は,参道を本殿のほうに向かいながら,勢溜のほうをふり返って撮りました - それで,「上り参道」のように見えています。

参道が下って行く先には「素鵞川+」という小さな川が流れ,参道は,その流れを「祓橋(はらえのはし)」で渡ったあとは平らになって,拝殿や本殿があるほうに向かいます - 参道の祓橋から先は松並木になっていて,「松の参道」と呼ぶようでした。

+
境内のいちばん奥に,素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀った「素鵞社(そがのやしろ)」という摂社がありますが,川の名前にも「素鵞」という字が使われていますので,ちゃんと確かめたわけではありませんが,「そががわ」と読むのだろうと思います。

出雲大社の参道は,その前半は「下り参道」;後半は「松の参道」と呼ばれるのだろうと思います。「下り参道」には「下り坂になっている参道」という,普通名詞のように使われることもあるのでしょうが,「出雲大社の参道の始まりのほう」とか「勢溜から祓橋までのあいだ」という,特定の場所を示すことば(固有名詞)として使われることが多いのではないかと思います。

「大社」に相応しい長い参道のあとに,宇迦橋の大鳥居から数えて4つ目;勢溜の鳥居から数えて3つ目にあたる「銅鳥居」という,銅(たぶん青銅だと思うのですが)で作られた鳥居をくぐると,拝殿があり,その奥に本殿の屋根が見えてきました。「いかにも(出雲)」な感じがする太い注連縄は,ここで見たのが初めてだったような気がします。
拝殿の横を通って奥へ進むと,拝殿の裏を左右に通りぬけるみちがあり,本殿はその先に,「瑞垣(みずがき)」と「玉垣」という二重の垣根(外側が瑞垣;その内側が玉垣)にかこまれて立っています。

下の写真で,いちばん近くに見えているのが瑞垣です - 玉垣は,瑞垣の奥にかくれてしまって見えません。右側の写真に写っているのは瑞垣の垣根の部分だけですが,左側の写真の,画面のいちばん左には,瑞垣の門(「楼門(ろうもん)」)と,その内側にある玉垣の門(「八足門(やつあしもん)」)の屋根が写っています。
     東側
「楼門」は,それが「いつも」のことのようなのですが,閉まっていて,観光客は瑞垣のなかには入ることができません - 本殿を左手に見ながら,瑞垣に沿って「東側-裏側-西側」のようにひと周りするのが普通の道順になっているようでした。

拝殿は本殿の前にありますが,本殿のなかの大國主命は西を向いて祀られているからということで,西側の瑞垣の中ほどに,大國主命を正面から拝むための場所が作られていました++。ガイドさんの説明では,出雲大社にはたくさんの人がやってきて,それぞれに願いごとをするので(願いごとが多すぎて),大國主命に上手く伝わらないとも限らない;それで,念のために,拝殿でいちど,楼門のところでもういちど,そして最後に,西側の瑞垣のところで,大國主命の正面からもういちどというように,願いごとを三度くり返すと,うまく伝わる(かも知れない)ということでした。

++ ここは,大國主命が西を向いて祀られていることを知っていて,西側から本殿を拝んだり,賽銭を投げたりする人が多いので,ごく最近になって作られたのだということです。

 
左:本殿の裏側
 
右:素鵞社(そがのやしろ)
本殿よりも奥にあり,祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)だということです。



出雲大社のガイドツアーが神楽殿のまえで終わってから,ツアーで歩いてきたみちを反対にたどって勢溜までもどってくると,午をだいぶ過ぎていましたので,手ぢかなそば屋に入って,この店で,というよりも出雲でいちばんの名物らしい「三色割子」と,これも名物らしい「ぜんざい」をひとつ追加して昼食をすませました。

そのあとは,これも予定どおりに,古代出雲歴史博物館で加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡で掘りだされた青銅器(の本物)を見にゆきました。

「博物館」の展示では,大きな壁の一面をすっかり覆うように並んでいる,荒神谷で出土した,すべて展示してあったとすれば358本の銅剣が「いちばん」だったような気がします。銅剣の形のことや,荒神谷のような,思いもよらないところで見つかった理由については,考古学の研究者にお願いすることにして,私たちには,358本という数(の多さ)を不思議に思いながら眺めてくるというのが,いちばんの鑑賞方法だったような気がします。

岩倉遺跡の銅鐸も(たぶん)39個が並んでいるのは,素人目にも印象ぶかく,前日に遺跡のガイダンスで,レプリカを使って教えてもらったことを復習するのにもうってつけでした。

この博物館の「呼びもの」には,青銅器のほかにも:

鎌倉時代の本殿の「巨大柱」;「博物館」のサイト(http://www.izm.ed.jp/)には,この柱のことが:

平成12年から13年にかけて,出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし,直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見されました。これは,そのうちの棟をささえる柱すなわち棟持柱(むなもちばしら)で、古くから宇豆柱(うづばしら)と呼ばれてきたものです。境内地下を流れる豊富な地下水のおかげで奇跡的に当時の姿をとどめて出土しました。

柱材の科学分析調査や,考古資料・絵画,文献記録などの調査などから,この柱は,鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くなりました。

のように説明されていました〔2018年1月18日〕。
   
平安時代の出雲大社本殿;「高さが48メートルの巨大神殿」といわれる本殿の1/10模型

のようなものがあり,どちらも「ヘーッ」と思ったり言ったりするのに十分な代物でした。

館内の展示を一回りしたあとで,出口のほうに向かっていると,「『神話シアター』で映像をどうぞ」という呼び込みがありました - いろいろと桁外れなものを見せられたあとで,頭がボーッとしたいたせいもあり,素直に呼び込まれて「スサノオ神話:スサノオとヤマタノオロチ(『古事記』の神話)」というビディオを見てきました。

「観覧ガイド」というリーフレットを見ると,ほかに『中世のヲロチ神話』『オオクニヌシ神話』『風土記神話』のような「上演作品」があるそうで,出雲の神話を手軽に勉強するにはよさそうなのですが,時間の都合もありましたので,「映像のあらすじと解説」という解説シートをもらって,次の目的地に向かいました。

「博物館」から神門通りの中ほどにある大きな駐車場まで歩いてもどり,車で旧大社駅* に向かいました。駅まではわずか1キロほどでしたので歩いてゆきたかったのですが,「博物館」で少し余計に時間をすごしていましたので,往復で30分ほどの時間が惜しくなり,大社駅のなかに貼ってあったポスター** に「にぎわいを取り戻している」と書いてあった神門通り(の始まりの半分)をゆっくりと見てくることができませんでした。
**
「神門通りの成り立ち」という題名で,だれが作ったのかは分からないのですが,手づくり風の大作(A0サイズの用紙で2枚一組)でした。作られた時期は,書いてあることから想像すると,平成25(2013)年の少しまえのようでした。

駅舎(待合室)のなかに置いてあるのをもらってきた「重要文化財 旧大社駅」というリーフレット(出雲観光協会,2017.7)には,大社駅の旧駅舎のことが「出雲大社の門前町の表玄関にふさわしい,純日本風」のように説明されていましたが,私がうけた印象は,和風かどうかということよりも,「いかにも鉄道の駅らしい」というものでした。

リーフレットに載っている[旧大社駅沿革史]という年表から,「フーン」とか「ヘェー」と思ったところを抜き出してみると,大社線と大社駅の歴史というのは:

明治45年(1912年) 大社線の開通,大社駅の開業
大正8年(1919年) 「大社駅-京都駅」に直通列車を運行開始
大正13年(1924年) 駅舎の改築 - 二代目駅舎(現存の旧大社駅)の完成
昭和10年(1935年) 「大社駅-大阪駅」に急行列車を運行開始(山陰本線で最初の急行列車;福知山線経由で所要時間8時間23分)
昭和18年(1943年) 戦争の激化で「大社駅-大阪駅」の急行列車を廃止
昭和26年(1951年) 「大社駅-大阪駅」の急行列車が復活(いずも号)
昭和31年(1956年) 急行「いずも号」の運転区間を「大社駅-東京駅」に延長
昭和37年(1962年) 「大社駅-京都駅」に急行「だいせん号」を運行開始
昭和41年(1966年) 「名古屋駅-大社駅」(リーフレットでは「熱田神宮から出雲大社へ」)に急行「大社号」を運行開始
昭和49年(1974年) 無煙化(蒸気機関車からディーゼル機関車に変更)
昭和57年(1982年) 急行「大社号」の廃止
昭和60年(1985年)
急行「だいせん号」の運転区間を「出雲市駅-大阪駅」に変更(これで,山陰本線からの直通列車がすべて廃止され,大社線内を折り返し運転する普通列車だけになった。)
平成2年(1990年)
大社線の廃止,大社駅の廃止
平成16年(2004年)
大社駅(旧駅舎)を重要文化財に指定
平成21年(2009年)
大社駅(旧駅舎)を近代化産業遺産に指定

のようなことらしいと分かってきました。

リーフレットの年表のなかには:

昭和28 前半
戦後の大社駅が最も輝いた時
  正月3日間の出雲大社参拝客数は,前年の4割増の15万人と戦後最高を記録。このうち2万6千人余を列車で運んだ。また,同年5月の出雲大社正遷宮祭には12万9千人の旅客を運んだ。

という説明もありました。「12万9千という旅客」が「何日で」なのかは分かりませんが,おなじころの東京駅の「1日平均乗車人員」が207,922人(昭和28年度)W)と比べても,おなじ「10万人台」ですので,なかなかのものだったことが分かります - 駅の大きさのちがいも考えに入れれば,「12万9千人」のスゴさも分かろうというものです。

私たちは,いわゆる鉄ちゃんや鉄子さんではないのですが,鉄道の歴史(とりわけ,看板列車の移り変わり)というのはナニか気になるものです - 私たちが直接には知らない時代のことも含め,世の中や人の気持ちの移ろいを映しているように感じるからなのだろうと思います。
左の写真は,リーフレットに「待合室中央の凝った厨子風の建物は旧出札室」のように説明されているところです。

「厨子」の左側には「観光案内所」という看板がかかっていますが,看板の下の窓口だけが観光案内に使われ,それ以外の,出札室の正面に見えている3つは出札のために使われていたのだろうと思います。

出札室の右側にも窓口があるのですが,そちらの窓は大きく,ほかの4つの窓の倍くらいの幅がありますので,「精算所(かなにかだったのかも知れないネ)」という想像になりました。リーフレットに,待合室の「右手が一等・二等待合室」だったという説明がありましたので,大きな窓口が一等・二等の出札窓口だったというのはドーだろう,という想像にもなってきました - いずれにしても,想像を楽しんでいるだけのことですが。

待合室のなかにはもうひとつ,「観光案内所」の窓口に向き合っている壁面に,もっと「近代的」な出札窓口がありました - そちらが,いつから使われたものなのかは分かりませんが,いまも残っているということは,大社駅が平成2年(1990年)に廃止になるまで使われていたのだろうと思います。
改札口のうえには,下の写真(2枚の左側)のような時刻表がかかっていました - 大社線と大社駅が廃止された日(1990年3月31日)までのものだと思うのですが,すべての列車が出雲市ゆき(つまり,大社線内だけの運行)で,一日の本数は15本になっていました。
出札口(「近代的」なほう)のうえには「普通旅客運賃表」がかかっていました - これも,廃業当時(1985年)のものだと思います。

30年ほど前の運賃を,いまの運賃と比べてみたくなり,ウェブの乗り換え案内で運賃を調べてみたのですが,ほとんど変わっていないようでした。

運賃が変わったのは消費税の分だけで,大社線が廃止になった平成2年(1990年)には3%だった消費税が,平成9年(1997年)に5%に引き上げられていますので,その分(2%)が高くなっているのだろうと思います。ウェブで,発駅を大社駅の代わりに出雲市駅にして検索した運賃には,大社線内(7.5 km)の分が含まれていませんので,運賃がその分だけ安く計算されていることも,ときにはあったのではないかと思います。

それにしても,鉄道の運賃が,この30年ほどのあいだに消費税の分しか上がっていない(運賃そのものは上がっていない)のだとは知りませんでした - ほんとうに「そう」なんでしょうね。あまりに意外なことなので,調べてはみたものの,このまま信じてしまってよいものなのかどうなのか,いまだに迷っています。

4日目よりあとのことは<その2: 9月27日~10月2日>に書く予定です。〔2018年1月26日〕



1) 山本敏夫: 新潟県野草図鑑<Ⅰ>, 新潟日報事業社, 321pp., 1998(改装版第2刷)
2) 山本敏夫: 新潟県野草図鑑<Ⅱ>, 新潟日報事業社, 307pp., 1998(改装版第2刷)
3) 山本敏夫: 新潟県樹木図鑑, 新潟日報事業社, 302pp., 1999(改装版第2刷)
4) 清水建美: 図説 植物用語事典, 八坂書房, 323pp., 2010(初版第6刷)
5) 牧野富太郎(原著): 新牧野日本植物圖鑑, 大橋広好・他(編), 北隆館, 1458pp., 2008. 11
6) 邑田 仁, 米倉浩司(編): APG原色牧野植物大図鑑,北隆館,Ⅰ〔ソテツ科~バラ科〕,11+647pp., 2012. 4; Ⅱ〔グミ科~セリ科〕, 11+887pp., 2013. 3
7) 大橋広好・他4(編): 改訂新版 日本の野生植物,平凡社,1: 391+図版 272pp., 2015. 12; 2: 381pp.+図版 256pp., 2016. 9; 3: 338pp+図版264pp., 338pp. +図版 264pp.; 4: 348+図版 256pp., 2017. 3
W) Wikipedia (https://ja.wikipedia.org/wiki/)

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